第16回 小樽人と年末年始の映画

 さて、ほとんど日常的にお芝居や映画を楽しむ機会に恵まれていた小樽の市井人ですが、年末年始と言えば、また一段と気分が上がったものです。かつて、芝居興行の世界では〝この時期といえばこれ!〟というような定番の演目があり、小樽の人々も、それを心から楽しみに待ちわびていました。
 例えば、12月になると〈忠臣蔵〉。これは皆さん、ご存じですね? 有名な赤穂浪士討ち入りの日が、元禄15年(1702)の12月14日だったことから、それに因んだ上演が行われるようになりました。現在でも歌舞伎座では、12月に通し狂言の「仮名手本忠臣蔵」を毎年掛けていますし、一方テレビ界でも、平成半ば頃までは〝年末(時には年始)は忠臣蔵の特番ドラマで決まり〟というムードが当たり前のように残っていました。現在は、それもかなり薄れていますが。
 越後久左ヱ門さんのご子息・久司さんによると、子供の頃(昭和10年代前後)は、年の瀬に「忠臣蔵」の映画が掛かるのが、ことのほか楽しみだったそうです。

 試しに、かつての忠臣蔵映画をWikipediaで調べて見ると、本当に沢山ありますね!
 最も古いのは明治41年(1908)の「実演忠臣蔵」。その後数回、断続的に作られましたが、やはり人気が高かったのか、大正9年(1920)以降からはほぼ毎年製作されています。大河内傳次郎主演の「元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻」(昭和5・1930 日活)や「忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇」(昭和9・1934 日活京都)。ほかにも、大石内蔵助を阪東妻三郎が演じた「忠臣蔵 天の巻・地の巻」(昭和13・1938年、日活京都)や、四代目河原崎長十郎が演じた「元禄忠臣蔵 前篇・後編」(昭和16・1941、昭和17・1942 松竹/溝口健二監督)もなど、タイトルを挙げればきりがありません。毎年、その時代を代表する名優が主役を演じていたのですね。ちなみに、久司氏の印象に特に残っていたのは、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)の大石内蔵助だそうです。とすると「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(昭和29・1954 松竹)でしょうか。
 映画会社によっても特徴が違って、松竹は主に歌舞伎俳優が演じ、それが東映となると、また配役がガラリと入れ替わったそうです。当然、誰もが知っている名場面でも、いかにも歌舞伎的だったり、新派風だったりなど、演出も違ったことでしょう。映画館の豊富な小樽のことですから(注1)、目の肥えた見巧者(みごうしゃ)の観客は、そうしたバリエーションを楽しみ尽くしていたわけです。

 そしてまた、久司氏に拠りますと、〈忠臣蔵〉の醍醐味といえば、その〈表〉と〈裏〉の世界だそうです。
 〈表〉とは、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる〈松の廊下〉から切腹、大石内蔵助の遊興、そして討入りの場面など、史実的なメインストーリーの方です。これらはもちろん、忠臣蔵で最も大事な見所なのですが、一方〈裏〉はというと、〝討入りに至るまでにその背景では何があったのか?〟という興味で観る者の心をひきつけるお話です。
 一例を挙げれば、俵星玄蕃(たわらぼし・げんば)。元尾張藩士族の槍の名人・玄蕃は、そば屋に身をやつして討入りの機をうかがう杉野十平次(すぎの・じゅうへいじ)の正体を見破ります。杉野はあくまでシラを切り続けるものの、二人の間に不思議な友情が芽生え…というストーリー。忠臣蔵にまつわるエピソード群である「義士銘々伝」(今で言うインサイド・ストーリー、もしくはスピンオフ)の中でも名高いもので、戦後には、元浪曲師の演歌歌手・三波春夫が「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」(昭和39年)を歌って大評判となりました。

 銘々伝には他にも〈堀部安兵衛 高田馬場の仇討ち〉や、吉良家図面奪取にラブストーリーが絡んだ〈岡野金右衞門とお艶〉の話など、興味深い物語が満載。そして映画の忠臣蔵では、毎回様々な趣向を凝らしてお客様をひきつけるため、それら〈裏〉物語も適宜織り込むわけです。映画好きにとっては、〈忠臣蔵〉の中で、今度はどのエピソードがどう活かされているか、それが毎年恒例の楽しみでした。

 そして年が明ければ、…こちらは主に映画というより歌舞伎ですが、決まって掛かるのは〈曽我物〉。鎌倉幕府の、源頼朝の時代を舞台とした曾我十郎・五郎兄弟の仇討ちの話ですが、クライマックス近くが広々とした〈富士の裾野〉に展開する陣屋の場面なので、その風趣が目出度いとのことで、伝統的に、正月に公演されるようになったとのことです。

 こうした映画やお芝居が掛かる時、小樽の人たち(そして日本の津々浦々の人たち)も、ただ単に浮かれて見に行ったわけではありません。何しろ一年の終わりと始まり、昔から枕詞に「あらたまの年の…」と詠まれたように、〈心新たな/改まる〉季節だったわけです。さらに、その時期に演じられているのは、お侍(さむらい)が命をかけて、艱難辛苦の末に主君の恨みを雪(そそ)いだり、親の無念を晴らしたりするお話です。
(これを、「ただ忠義のために盲目的に行動することを良しとする封建時代的・従属的発想」だとして、戦後には色々批判されたこともあったようですが、そんな単純なものとは思えません。人の心や行動は大義名分だけで割り切れるものではないという事の証左として、〈裏〉の話が沢山生み出されてきたわけですし。)
 ですから、久司さんのお若かった時代には、街の皆さんも〈忠臣蔵〉が掛かるというと、紋付きの着物(和服の正装)で観に行ったとのこと。生の役者さんの出る歌舞伎芝居はもちろんのこと、映画であっても、俳優さんに敬意を表して紋付きで行ったそうです。

 それは弁士さんも同様で、自分が語ったり声を当てたりする映画が、そういう立派なお侍や忠義の人の話なら、気を抜いた恰好など決してしません。きちっと紋付きを着て、かたちを改めて語りました。

 それがまた、明けてお正月となりますと、皆、晴れ着で映画や観劇に出掛けます。黒紋付きばかりではなく、女性ですと色留袖や付下(つけさげ)、訪問着、お嬢さんなら振袖など。髪もきれいに、日本髪や洋髪に結い上げて…。そういった方たちが花園町の演芸館・映画館が並ぶ通りを行き交うさまは、どんなにか華やかだったことでしょう!

 そして映画がはねますと、皆がよく行ったのが、ぱんじゅう屋さん。花園には〈竹屋〉と〈がんじろう〉という、二軒の有名なぱんじゅう屋が間近にあり、ご家族、カップル、また友だち同士で、お店で熱いお茶をいただきながら、焼きたての甘〜いぱんじゅうをパクリ、ホクホク…。家で待つ家族へのお土産にと、包んでもらったりもしたそうです。

 また、もうちょっとぜいたくをしたいときは、「カレーライスでも食べて帰ろうか?」 花園公園通りには〈大仏〉というカレー屋さんがあって、大仏さんの大きな看板が目印。その近くには〈ホーマー〉というカレー屋さんもあり、こちらはとにかく、福神漬けもラッキョウも、色々な種類が取りそろっていて、食べ比べが出来るのが評判だったそうです。それぞれ同じように見える福神漬けでも、種類を変えて食べ合わせてみると、カレーの味が、またちょっと違ったとか。いわゆる〈味変(あじへん)〉ですね! こんな、付け合わせの方をウリにしたユニークなカレー屋さん、もしも、今もあったら楽しいでしょうね。

 ただ賑やかなだけではない、折り目正しい人々の、心豊かな年末年始の楽しみ。昔の小樽のその季節を、そっと覗いてみたい気がします。

注1 はじめは幾つかの演芸館で時折映画を掛けていたが、大正3年に映画常設館の電気館が開業した後、次第に映画専門の館が増え、戦後のピーク時には25、6館を数えた。