これまで小樽の演芸について語ってきたのは、単に〈越後久左ヱ門とその仲間たちがすごい!〉ということをお伝えしたかったからだけではありません。
もちろん、人間的に魅力のある方々ですし、活躍の様子がわかればわかるほど、その活気とワクワク感が伝わってきます。しかし、それ以上に私は、〝そういう芸能面での活躍が出来る人たちが自然に現れてくるほど、ここ小樽に住んでいる人たちのポテンシャルは高かった〟という事を、広く発信したかったのです。
小樽での興業環境については、第3回「演芸館が〈濃い〉小樽」と第9回「小樽の演芸館と、踊る商店主」でも少し触れましたが、ここでは改めて、〝ある日の小樽の市井人〟を想定してみることにしましょう。
例えば、明治44年(1911)3月26日の朝。今しも、小樽のごく普通の勤め人が、届いたばかりの新聞をガサガサと開いて(しばらく演芸場にもご無沙汰していたな。もし面白そうなものが掛かっていたら、今日あたりちょっと覗いてみようか。何がいいかな)と「演芸界」欄に目をやったとします。すると…
花園座 菅原千鳥一行
小松嵐(千秋) 贋造事件(歌田) 寛永御前試合(小清) 釣天井(綾太郎)
紀文大尽(轟) 曽我のつゞき(千鳥)
大国座 新派西尾稲葉一座
住吉座 当用活動写真の浮出し写真
演芸館 〆太磯右衛門一行
天保水滸伝(〆太)、柳生旅日記、左原喜三郎(鉄右衛門)
寿館 エムパテー活動写真
…などという演目が、ズラリと並んでいるわけです。
菅原千鳥一座は浪曲(浪花節)ですし、〆太磯右衞門もおそらく浪曲、西尾稲葉一座は新派演劇、住吉座と寿館は活動写真だったわけで、この日だけでも色々選べますね! なお、寿館の「エムパテー」は日本の映画会社M・パテー商会のことで、大正元年(1912)に発足した日本活動写真株式会社(日活)の、前身4社のうちの1つです。
あ、演し物のタイトルの方が、現代人にとっては、何のことやら…でしょうか?
例えば「寛永御前試合」、これは元々講談の演目です。内容自体は架空の御前試合で、歴史的事実を伝えるものではありません。しかし、かつて徳川家康に仕え、三代将軍家光に口うるさく進言する頑固爺(この点はフィクションのようですが)として知られた大久保彦左衛門が出て来ます。また、新陰流の剣術の達人でよく柳生十兵衛と共に語られる荒木又右衞門、宮本武蔵をモデルにした〈宮本無三四〉なども登場。今のマンガカルチャーになぞらえれば、有名な歴史的剣豪キャラクターを一堂に集めた、楽しめる〈二次創作〉といったところでしょう。
一方、講談「釣天井」は、宇都宮の領主・本多正純が釣天井の部屋を作って徳川秀忠の暗殺を企てたとされた〈宇都宮城釣天井事件〉が下敷き。この話も、実は事実とは異なるようですが、江戸時代からずっと人々の間で語り継がれた話らしく、落語「湯屋番」の中でも、お店(おたな)の出入り職人の家に居候している若旦那のせりふで「お前んとこのかみさんは、飯(めし)をちゃんと盛ってよこさないね、一見、茶碗に山盛りになっているようだけど中は空洞。これぞ宇都宮釣天井めし、本多謀叛(むほん)のめし…」と、くすぐりに使われるほど。かなり広く知られた伝説だったようです。
そして「紀文大尽」は長唄。あの、みかん船で儲けて大金持ちになった紀伊国屋文左衛門の話です。サビの部分「沖のナア 暗いのに 白帆が 白帆が 白帆が見ゆる あれはナア あれは紀の国 紀の国蜜柑船ぢゃえ」は、大変流行ったフレーズだったらしい(おそらく古い元歌もあるのでしょうが)。
試みに少しネットで調べてみますと、この「紀文大尽」は明治44年の作で、作詞は中内蝶二、これに四代目吉住小三郎と三代目杵屋六四郎が曲をつけたとのこと。とすると、偶然ですが、例に挙げた小樽の明治44年3月26日花園座での上演は、この唄の売り出し直前か直後の時期のものだったことになります。
ついでに言えば、演芸館の〆太磯右衞門の浪曲の方も面白そうです。「天保水滸伝」は下総(今の千葉県)の侠客の勢力争いの話ですが、ここに出て来る博徒の用心棒・平手造酒(ひらて みき)は、結核を患い血を吐きながら刀を揮う壮絶な悲劇性から大人気でしたし、「柳生旅日記」は黒い眼帯がトレードマークの片目の男・柳生十兵衛が主役で、剣士剣豪のキャラクターの中でも強烈な存在感を放っていました。時代劇好きなら、どちらも聴きたい!となったはずです。
このように、バラエティ豊かな浪曲や講談を聴き、またお芝居の方も普通に見慣れていると、大久保彦左衛門でも本多正純でも紀伊国屋でも、生きた人間として、脳裏にイメージが動くようになると思われるのです。もはやある種の時代感覚です。
そして、今のように大体どこに住んでいてもケーブルテレビや動画配信でいつでも好きな映画・ドラマが見られるという社会と違って、当時は、こんな風に物語を、視覚聴覚をフルに使って堪能できるかどうかは、住んでいる街にどれだけ演芸館や映画館があり、どれほど頻繁に興業が行われているかによったわけで、地域に歴然とした格差がありました。その点では、小樽は全国的に見ても、東京の浅草、大阪の道頓堀あたりと比べてさほど遜色のない環境だったと思われます。
ただ、これを、〝歴史的事実とはかなり違うのに、そんな作り事に入れ込んだり、感動して涙を流したりして、昔の人たちは単純だ〟と、笑う人もいるかも知れません。
でも、それでは昨今の日本人は? 残念ながら、日本歴史に基本的に無関心な人も多いと思われます(なにしろ平成以降の若い世代にとっては、世界史は高校で必修でも、日本史は地理とどちらを選ぶかという選択科目なわけですから)。江戸時代にしろそれ以前にしろ、教科書的な項目以外にはイメージも無く、たまにテレビの特番などを観ては「へ〜」「ふ〜ん」。文系学部の大学生や大学院生にしても、自分に関心がある領域以外は、同じように知識はフワッとしたものでしょう。ただ、そうした一般の人々に混じって、いわゆる歴史オタク……大河ドラマなどを熱心にチェックし、歴史本や歴史小説を読破し、細かい逸話にまで実に詳しい人たちが、何パーセントかは存在する、という状況ではないでしょうか。
それに比べれば、もっと日常会話的なレベルで「あそこのじいさんはまったく大久保彦左だな」「あの会社の儲け方、まさに、沖の暗いのに白帆が見える…ってとこだ」と言うだけで、互いにどんな物語のどんなエピソードを指しているかピンとくる、という共通の素地を持っていた人たちの方が、どれほど豊かな日本歴史や日本古典に対するリテラシーを有していたかわかりません。