〈白夜会〉がリードした、大正5〜6年頃の美術展。
また、メンバーが替わり、〈緑人社〉(りょくじんしゃ)となってからの、大正10年代の様々な展覧会。
さらにこの間に『おれたち』という雑誌の刊行あり、そのすぐ後には、小樽の文学史上重要な文芸雑誌『群像』の編集活動あり。
加えて、〈啓明会〉による文化人を招いての講演会や、〈アポロソサエティ〉のレコードコンサート、外国人ミュージシャンの生演奏、etc…が小樽で繰り広げられるわけですが、これらの実現に高田紅果が深く関わっていたことと、その理由とは、前回までの稿でお分かりいただけたかと思います。
もちろん、単に紅果一人の力で、これらがすべて可能になったとは思われません。紅果自身、例えば手紙の中で「会(※アポロソサエティ)のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ、すこしづつでも恁(こ)うした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね」(早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)と書いています。これなどは決して「全部自分が買った」というニュアンスではありませんから、おそらく他の会員たちが寄附してくれたりしたものを集めて、当時高価だったレコードを増やしていったのだと思われます。
要するに、紅果が力を尽くしたのは、〝文化的なことには意義があるよ〟と人の気持ちに働きかけることであり、では、それを何かの形にして世に表現しようとなった時に、皆のためにその場を用意すること、そしてそれが立派なものになるように、最適な演出を考えることであったと思われます。
それにしても、高田紅果という人の立ち位置には、独特なところがあります。