〈白夜会〉がリードした、大正5〜6年頃の美術展。
また、メンバーが替わり、〈緑人社〉(りょくじんしゃ)となってからの、大正10年代の様々な展覧会。
さらにこの間に『おれたち』という雑誌の刊行あり、そのすぐ後には、小樽の文学史上重要な文芸雑誌『群像』の編集活動あり。
加えて、〈啓明会〉による文化人を招いての講演会や、〈アポロソサエティ〉のレコードコンサート、外国人ミュージシャンの生演奏、etc…が小樽で繰り広げられるわけですが、これらの実現に高田紅果が深く関わっていたことと、その理由とは、前回までの稿でお分かりいただけたかと思います。
もちろん、単に紅果一人の力で、これらがすべて可能になったとは思われません。紅果自身、例えば手紙の中で「会(※アポロソサエティ)のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ、すこしづつでも恁(こ)うした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね」(早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)と書いています。これなどは決して「全部自分が買った」というニュアンスではありませんから、おそらく他の会員たちが寄附してくれたりしたものを集めて、当時高価だったレコードを増やしていったのだと思われます。
要するに、紅果が力を尽くしたのは、〝文化的なことには意義があるよ〟と人の気持ちに働きかけることであり、では、それを何かの形にして世に表現しようとなった時に、皆のためにその場を用意すること、そしてそれが立派なものになるように、最適な演出を考えることであったと思われます。
それにしても、高田紅果という人の立ち位置には、独特なところがあります。
第5回 芸術が盛んなミラクルの街!
前回までは、講演会や展覧会などの催しで、小樽の色んな施設をフルに使っていた高田紅果とその友人たちについてご紹介しましたが、実は、その活動は、大正10年代にとどまるものではありません。少なくとも大正5年(1916)頃から、彼らはもう、そういう活動を始めていたらしいのです。
例えば、その年の6月28日には、『小樽新聞』に「オアシス羊蹄画会連合洋画会 七月一、二両日色内亭にて」という記事が載りました。内容は〝当区〈注1〉の洋画研究会である羊蹄画会の上田如神は、三浦鮮治・蛯子幸一らのオアシス会員と計画して、来る七月一日・二日の両日、色内亭〈注2〉においてオアシス羊蹄画会連合展覧会を開催する。日本水彩画会の平沢三味二(貞通)、船樹忠三郎らも応援で出品する予定〟というものです。
船樹忠三郎と言えば、前回、名前が出ていましたね。この頃彼はまだ25歳前後。2年前には東京に出ていて、木下藤次郎が開いた日本水彩画研究所で学び、第一回二科展で入賞した気鋭の新人。そして小樽では、若き日の平沢貞通と一緒に、日本水彩画会の支部を立ち上げていました。
また、その一方では、高田紅果の関わっていた雑誌『白夜』が〈捲土重来〉で再刊か!という記事が載っておりまして……。
第4回 まだまだあった、大賑わいの施設
さて、前回お話ししましたように、小樽では各演芸館がバラエティに富んだ演(だ)し物で観客を魅きつけていたわけですが、これが文化講演会や絵画展となると、他の施設も利用されていました。その好例が、公会堂や〈倶楽部〉という場所です。
ここで、高田紅果の書簡に戻って見ましょう。
此月(大正11年9月)は二日ばかり前に函館へ来てゐた変態心理研究の中村古峡氏を聘して講演会を開いた、公会堂でやったんですが百五十名程の人を集めました まづ成功の方でせう
(高田紅果 早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)
花の盛りの頃に私達の緑人社一派と、銀行の人達や所謂邦画の紳士連中の団体吟筆会と合同で展覧会を開いたものです。
(高田紅果 早川三代治宛書簡 大正13年6月29日)
※『小樽新聞』大正13年5月17日に「小樽公会堂で絵画展覧会」の記事あり