さて、久左ヱ門さんにお話を戻しましょう。
師匠にはつかず、生の舞台から名優・名演者の芸を〝盗んで〟踊りや演技を極めていった越後久左ヱ門(第10回・11回・12回・13回)。その芸達者は認めぬ者がないところとなり、ついに、花園第一大通の商店主の集まり〈至誠会〉と、同じく第二大通の商店主の集まり〈温交会〉から、高い芸域を讃えた後幕(うしろまく)を寄贈されることとなりました。〈後幕〉とは、踊りの背景に使われる幕です。大正13年10月のことでした。
その〈後幕〉寄贈のための寄附をつのった、以下のような書面が残っています。
越後家君後援 後幕寄贈録 主催 至誠会有志
我(わが)名物男越廼家(こしのや)君は我等不老年の為には無くてはならぬ名物で有る かかるが故に同志相はかり後幕壱張(ひとはり)寄贈せむとす どうぞ皆さまも君(くん)の為にがまぐちをふるってなる丈(だけ)大きなペーパーを御寄贈ならむ事を御願致ます
ふじのすそのに立つかりの 又おとづれて来る頃も
大正拾参年葉月中旬 世話人 有志一同
〈越廼家〉は越廼家(越乃家)久陶、読みは「こしのや きゅうとう」。越後屋さんこと越後久左ヱ門の芸名です。越廼(乃)は越の国(越後=新潟)に通じますし、久陶は久左ヱ門の久に陶器屋の陶を合わせたのですね。そして、文章の中の「なる丈大きなペーパーを御寄贈」とは、〝なるべく高額の紙幣を寄附して〟と言うことでしょう。
付言しますと、この時久左ヱ門の為に発注された後幕の柄は、歌舞伎の演目や正月映画でお馴染みの、あの「曽我物語」の〈富士の裾野〉でした(第16回参照)。この場面における唄と踊りは、芸自慢の久左ヱ門さんにとっても十八番(おはこ)、自他共に認める得意演目。上の文章の末尾「ふじのすそのに立つかりの…」は、それを踏まえながら絵柄を皆に暗示しているわけで、結びとして非常に洒落ています。
さらに、この後幕を贈られて感激した久左ヱ門が、至誠会・温交会のメンバーを後幕披露の宴に招待した時の文面も、また立派です。
時は今 見渡す限り目も綾に 錦織りなす紅葉の 色より赤きみなみな様の御心つくし いとも栄えある御寄贈に かくるも嬉しうしろ幕 床(ゆか)しき薫り身にしみて たとへ方なきよろこびを あわせてこれを皆様に 御披露かたがた打(うち)とけて 心ばかりのささ(酒)ひとつ さしあげたてまつる
儲けしごとにいそがしき ところをまげて来る十日 夕くれときの六時までに 心うかるる花園町は大政(だいまさ)まで 御入らせのほど ひとへに二重 八重九重に ねがひあげたてまつります
神無月上の八日 ご存じの
越乃家久陶
越後久司氏によると、この文章は、金物屋を営んでいた星久馬(ほし きゅうま)氏が草したものとのことですが、それは見方を変えれば〝当時の小樽では、金物屋の主人が、五七あるいは七五調の優雅で情趣に満ちた招待文を書くことが出来た〟と言うことで、それもまた市井人の教養としては素晴らしいものではないでしょうか?
この書面では35名の人が招待されていますが、久司氏に教わったところ、そのうち以下の方々の職業やお店等が判明しています。きっと、この方々の中に、若き日の久左ヱ門と一緒に芝居を足しげく観に行ったり、互いに「ちょっと、あの芸盗めや」と声をかけ合っていた方たちがいたのですね。
米 市松 カフェ経営(花園だんごの「新倉屋」裏)
伊藤末吉 伊藤染物店(現「旗イトウ製作所」の前身)
小川富三郎 人形店 カネイ小川
諏訪久市 眼鏡屋
田中捨菊 判子屋
星 久馬 金物店
齋藤 貢 茶葉販売
青山久太郎 床屋(現「青山理容店」 歌人・青山ゆき路の実家 ちなみにこの家の〝青山のおばあさん〟と呼ばれた人は義太夫語りで有名だった)
村田卯平 呉服屋
黒瀬金之助 黒瀬病院院長(のち「花田病院」)
原田文人 歯科医
小島英三 米屋
沖 豊吉 畳屋(ちなみにマラソンもやっていた方)
山崎清治 牛乳屋
髙橋久次郎 畳屋
本間勘次 文房具卸問屋 丸越本間(義太夫語りで有名)
そして、立派な〈富士の裾野〉の幕(下の写真)を染め抜いたのは、伊藤染物店の伊藤末吉でした。伊藤染物店は、主に大漁旗などを手掛けていた染物屋さんですが、久左ヱ門のために腕をふるって「曽我物語」の背景を染め上げたのです。陣幕の配置や、仇である工藤祐経の紋どころなど、これらも芝居や古典物語に加え、歴史に関する造詣がなければ作画することができません。
古典的な言葉遣いのリテラシー、古典文学や芸能についてのリテラシー。しかも、単に、すでにあるものを暗記しているだけではなく、いま現在の〈自分たちの娯しみ〉のために使いこなしている訳で、教養が血や肉になっていると言えます。小樽人の〈知〉の底力はこういうところに発揮されていたのではないかと、私は思うのです。
注1
なお、写真を拡大すると、パネルのキャプションには〈大正14年10月〉とあるが、寄附を募った書面の方から、正しくは大正13年と推定される。