第13回 開陽亭での芸くらべ

 前回までお話ししましたように、ほぼ独力で芸を磨いていった越後久左ヱ門さん。仕事は仕事、芸は芸とわけるのではなく、芸を仕事に生かし、また、仕事をそのまま芸の修練の場とするのが独自のスタイルであったようです。

 その当時、小樽には遊郭(ゆうかく)が2箇所ありました。松ヶ枝遊郭(南廓 なんかく)と梅ヶ枝遊郭(北廓 ほっかく)。いかにも雅びな名前で、現在もその名は町名として残っています。
 遊郭というと、今の人は単に風俗店のひしめく歓楽街を想像するかも知れませんが、遊郭の機能はそれだけではありませんでした。当時の賓客(ひんきゃく)、いわばVIPを接待する場所として、規模の大きな街だと遊郭は欠かせなかったわけで、ですから格の高い大きな妓楼(ぎろう)が存在するということは、その時代には、街の人々にとっては一種のプライドでもありました。
 また、そういう所でお座敷をつとめる芸者衆も、三味線や唄・踊りに高度な芸の力を要求されました。地元の旦那衆を楽しませるだけではなく、東京や、本州の大きな街からの接待慣れしたセレブなお客をもてなすのですから、なおさらの事です。

 そして、久左ヱ門は陶器屋として、南廓に出入りしていました。特に、南廓の中でも名高い鯉川楼(こいかわろう)は、大切なお得意様でした。

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第12回 人には見せず積む努力

 切られ与三郎や弁天小僧など、いずれも有名な見せ場のある役を担っていたのですから、その事実だけでも、越後久左ヱ門の演技力がどれほど皆に評価されていたかが察せられます。しかし久左ヱ門は、ただ自分の天性のみで演じていたわけではなく、役作りのために地道な努力を重ねていました。
 と言って、先にも少し触れましたように、小樽の商店主は皆、普段は家業で忙しくしています。それに、息子さんの話によりますと、久左ヱ門さんは、家では絶対に芝居の稽古をしている姿を見せず、踊りさえ見せなかったとのこと。とすると、いったいどこで、どんな風に修練を?という疑問が起こってきますね。

 その方法は、非常にユニークなものでした。

 例えば、〈浜松屋の場〉での弁天小僧の役。舞台に登場する時には、たおやかな武家娘の姿で出て来ます。あらすじをご説明しますと、この娘が、呉服店浜松屋で美しい布地を懐に入れるようなしぐさをしたことから、万引きだと見とがめられ、番頭にソロバンでぶたれて、額にケガをします。しかし、実はその品は他店のものでした。すると、娘のお供の若党(もちろん弁天小僧とグル)が〝嫁入り前のお嬢様に傷がついた〟と騒ぎ始め、さあどうする、とすったもんだ。結局、店から百両の示談金を受け取ることで、決着がつきそうになります。

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