第17回 越後屋さんに贈られた後幕

 さて、久左ヱ門さんにお話を戻しましょう。

 師匠にはつかず、生の舞台から名優・名演者の芸を〝盗んで〟踊りや演技を極めていった越後久左ヱ門(第10回11回12回13回)。その芸達者は認めぬ者がないところとなり、ついに、花園第一大通の商店主の集まり〈至誠会〉と、同じく第二大通の商店主の集まり〈温交会〉から、高い芸域を讃えた後幕(うしろまく)を寄贈されることとなりました。〈後幕〉とは、踊りの背景に使われる幕です。大正13年10月のことでした。
 その〈後幕〉寄贈のための寄附をつのった、以下のような書面が残っています。

越後家君後援 後幕寄贈録 主催 至誠会有志
 我(わが)名物男越廼家(こしのや)君は我等不老年の為には無くてはならぬ名物で有る かかるが故に同志相はかり後幕壱張(ひとはり)寄贈せむとす どうぞ皆さまも君(くん)の為にがまぐちをふるってなる丈(だけ)大きなペーパーを御寄贈ならむ事を御願致ます
 ふじのすそのに立つかりの 又おとづれて来る頃も
 大正拾参年葉月中旬 世話人 有志一同

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第16回 小樽人と年末年始の映画

 さて、ほとんど日常的にお芝居や映画を楽しむ機会に恵まれていた小樽の市井人ですが、年末年始と言えば、また一段と気分が上がったものです。かつて、芝居興行の世界では〝この時期といえばこれ!〟というような定番の演目があり、小樽の人々も、それを心から楽しみに待ちわびていました。
 例えば、12月になると〈忠臣蔵〉。これは皆さん、ご存じですね? 有名な赤穂浪士討ち入りの日が、元禄15年(1702)の12月14日だったことから、それに因んだ上演が行われるようになりました。現在でも歌舞伎座では、12月に通し狂言の「仮名手本忠臣蔵」を毎年掛けていますし、一方テレビ界でも、平成半ば頃までは〝年末(時には年始)は忠臣蔵の特番ドラマで決まり〟というムードが当たり前のように残っていました。現在は、それもかなり薄れていますが。
 越後久左ヱ門さんのご子息・久司さんによると、子供の頃(昭和10年代前後)は、年の瀬に「忠臣蔵」の映画が掛かるのが、ことのほか楽しみだったそうです。

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第14回 音羽家の演目は密度ぎっしり!

 さて、前回から少々間が空きました。
 その間、時間の合間を縫って、2017年の小樽文学館「芝居小屋・演芸館・映画館展」の際の保存資料を見返しておりましたら、〈第三回音羽家演劇同好会春季大会〉のプログラムのコピーが出て参りました。折角ですので、お話の流れは前後しますが、大会で実際にどんな演目が掛けられたのか、ここにご紹介しておきましょう。
 実は、上記展覧会に展示もされたこのプログラムですが、このたび丁寧に見直してみるまで、私自身、何となく、演劇同好会の大会は一回につき一演目だったような錯覚をしていたのでした。
 ところが、何と。それはトンでもない勘違いだったのです!

 初日の順序
一 慶安太平記 堀端の場 一幕
二 傾城恋飛脚 新口村の場 一幕
三 曽我物語 敷皮問答の場 一幕
四 菅原伝授手習鑑 松王下屋敷の場 一幕
五 本朝二十四孝 十種香より狐火迄(まで) 二場
六 忠臣蔵三段目 刃傷より道行迄 二場
七 艶姿女舞衣 三勝半七酒屋の場 一幕
八 白波五人男 浜松屋より勢揃迄 二場

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第12回 人には見せず積む努力

 切られ与三郎や弁天小僧など、いずれも有名な見せ場のある役を担っていたのですから、その事実だけでも、越後久左ヱ門の演技力がどれほど皆に評価されていたかが察せられます。しかし久左ヱ門は、ただ自分の天性のみで演じていたわけではなく、役作りのために地道な努力を重ねていました。
 と言って、先にも少し触れましたように、小樽の商店主は皆、普段は家業で忙しくしています。それに、息子さんの話によりますと、久左ヱ門さんは、家では絶対に芝居の稽古をしている姿を見せず、踊りさえ見せなかったとのこと。とすると、いったいどこで、どんな風に修練を?という疑問が起こってきますね。

 その方法は、非常にユニークなものでした。

 例えば、〈浜松屋の場〉での弁天小僧の役。舞台に登場する時には、たおやかな武家娘の姿で出て来ます。あらすじをご説明しますと、この娘が、呉服店浜松屋で美しい布地を懐に入れるようなしぐさをしたことから、万引きだと見とがめられ、番頭にソロバンでぶたれて、額にケガをします。しかし、実はその品は他店のものでした。すると、娘のお供の若党(もちろん弁天小僧とグル)が〝嫁入り前のお嬢様に傷がついた〟と騒ぎ始め、さあどうする、とすったもんだ。結局、店から百両の示談金を受け取ることで、決着がつきそうになります。

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第11回 〈音羽家演劇同好会〉発足!

 しかし、越後久左ヱ門が舞台での唄や踊りに熱を込めたのは、単に仲間と一緒に芸事をするのが楽しかったからだけではありません。

 改めてご紹介しますと、久左ヱ門は、明治28年(1895)11歳の年に、石川県羽昨郡末森村から北海道に渡って来ました。年齢からみて、家族と一緒だったのでしょう。そして小樽の祝津学校〈注1〉に学んだ後、入舟一丁目のイチマス舛田商店(陶器・雑貨卸問屋)で丁稚奉公。日露戦争時には歩兵として入隊しましたが、明治39年(1906)に除隊した後はもう一度舛田商店に御礼奉公し、そして明治44年(1911)、27歳で花園町の畑14番地、現在の店舗の向かい側に独立出店したそうです。

当時、久左ヱ門の店の裏手、のちに演芸館が林立する所には、まだ山の痕跡が残っていました。明治38年までは、現在の花園町のど真ん中に小山があったわけで、この山が急速に切り崩されて街が造られていった様子については、以前「ブラタモリ」(2015年11月14日放送)で紹介されています。明治44年頃でも、小売りをしていたのは、その辺りでは久左ヱ門の店だけだったそうで、ですから文字通り、花園町で最も古い店舗であったと言えます。

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