第9回 小樽の演芸館と、踊る商店主

 では、項を改めまして、小樽の演芸館と市井の人々との関わりについてお話しさせていただきます。〝それは、文学とは何か関係があるのですか〟と? もちろん、これは、文学の享受の仕方にも関わるお話です。その事については追々と触れてゆくこととしまして……。
 今回は、小樽の花園町で陶器店を営んでいた越後久左ヱ門(えちご きゅうざえもん)氏(明治17・1884〜昭和43・1968)についての逸話を中心にお話を進めてゆきたいと思います。

 江戸時代の影響が色濃く残る〈芝居小屋〉の頃から、新劇・映画なども掛かるようになる〈演芸館〉の時代まで、演(だ)し物として庶民に人気だったのは、新内(しんない=新内節)、義太夫、浪花節などでした。三味線などで伴奏をつけ、唄うような節回しでストーリーや情景を語る、語り芸が大人気だったのです。
 その語りに人形で振りをつければ人形浄瑠璃、人間が演じれば歌舞伎。そのように考えると、歌舞伎も語り芸の一つの発展形と見てもいいのかもしれません。もちろん、講釈もその中の一つに入りますし、パロディ的に面白おかしく語れば噺(はなし)、いわゆる落語にもなるわけです。

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第8回 〈おれたち〉の呼び声

 なお、これまでの話に付け加えるならば、高田紅果は、好景気の時や自分が裕福な時だけ文化活動をしたわけではありません。

 大正の末からは、小樽も苦難続きでした。大正13年の手宮駅爆発事件〈注1〉、昭和初期の世界恐慌の影響、そして小樽市主催北海道博覧会開催と同日の盧溝橋事件勃発。そこから始まる日中戦争……。時代が進むにつれて、小樽の賑わいは次第に影を潜めてゆきました。
 さらに〈大東亜戦争〉に突入してからは、小樽の商船も戦時中の人員・物資輸送にかりだされ、爆撃や雷撃を受けてニューギニア沖などに次々と沈没。小樽経済を牽引してきた海運業は、大きな痛手を被ったのです。
 市民生活においても、全国的に、思想問題に抵触しそうな社会活動はすべて統制の対象になりました。講演会はもとより、洋楽コンサートや西洋画の展覧会などはもってのほか。出版業界も整理縮小。書店の店主たちは戦争に召集されて行き、やがて、廃業を余儀なくされた店も出てきました。

 活気あふれた頃の小樽を知っている当時50歳前後の人々にとっては、実に淋しい限り……。高田紅果や、その旧友たちにとっては、味気ない日常の合間に古書店を廻ることだけがささやかな楽しみだったのですが、そこである時、フッと思いついたことが――

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第7回 新しい〈商人〉の理念

 〈白夜会〉がリードした、大正5〜6年頃の美術展。
 また、メンバーが替わり、〈緑人社〉(りょくじんしゃ)となってからの、大正10年代の様々な展覧会。
 さらにこの間に『おれたち』という雑誌の刊行あり、そのすぐ後には、小樽の文学史上重要な文芸雑誌『群像』の編集活動あり。
 加えて、〈啓明会〉による文化人を招いての講演会や、〈アポロソサエティ〉のレコードコンサート、外国人ミュージシャンの生演奏、etc…が小樽で繰り広げられるわけですが、これらの実現に高田紅果が深く関わっていたことと、その理由とは、前回までの稿でお分かりいただけたかと思います。
 
 もちろん、単に紅果一人の力で、これらがすべて可能になったとは思われません。紅果自身、例えば手紙の中で「会(※アポロソサエティ)のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ、すこしづつでも恁(こ)うした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね」(早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)と書いています。これなどは決して「全部自分が買った」というニュアンスではありませんから、おそらく他の会員たちが寄附してくれたりしたものを集めて、当時高価だったレコードを増やしていったのだと思われます。
 要するに、紅果が力を尽くしたのは、〝文化的なことには意義があるよ〟と人の気持ちに働きかけることであり、では、それを何かの形にして世に表現しようとなった時に、皆のためにその場を用意すること、そしてそれが立派なものになるように、最適な演出を考えることであったと思われます。

 それにしても、高田紅果という人の立ち位置には、独特なところがあります。

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