第14回 音羽家の演目は密度ぎっしり!

 さて、前回から少々間が空きました。
 その間、時間の合間を縫って、2017年の小樽文学館「芝居小屋・演芸館・映画館展」の際の保存資料を見返しておりましたら、〈第三回音羽家演劇同好会春季大会〉のプログラムのコピーが出て参りました。折角ですので、お話の流れは前後しますが、大会で実際にどんな演目が掛けられたのか、ここにご紹介しておきましょう。
 実は、上記展覧会に展示もされたこのプログラムですが、このたび丁寧に見直してみるまで、私自身、何となく、演劇同好会の大会は一回につき一演目だったような錯覚をしていたのでした。
 ところが、何と。それはトンでもない勘違いだったのです!

 初日の順序
一 慶安太平記 堀端の場 一幕
二 傾城恋飛脚 新口村の場 一幕
三 曽我物語 敷皮問答の場 一幕
四 菅原伝授手習鑑 松王下屋敷の場 一幕
五 本朝二十四孝 十種香より狐火迄(まで) 二場
六 忠臣蔵三段目 刃傷より道行迄 二場
七 艶姿女舞衣 三勝半七酒屋の場 一幕
八 白波五人男 浜松屋より勢揃迄 二場

 二日目の順序
一 忠臣蔵三段目 刃傷より道行迄 二場
二 慶安太平記 堀端の場 一幕
三 艶姿女舞衣 三勝半七酒屋の場 一幕
四 本朝二十四孝 十種香より狐火迄 二場
五 菅原伝授手習鑑 松王下屋敷の場 一幕
六 傾城恋飛脚 新口村の場 一幕
七 曽我物語 敷皮問答の場 一幕
八 白波五人男 浜松屋より勢揃迄 二場

音羽家演劇同好会春季大会プログラム (年月日については下記「付記」を参照のこと)

 ……これはすごい!!  何といっても圧巻は、演目の多さ! 一日八演目を、順番を入れ替え、二日間続けています。
 もちろん、通し狂言(一つの演目につき全幕通しての公演)とは違い、それぞれの芝居の名場面を一幕か二場(幕)ですから、いわゆる〈さわり〉だけを見せていたとも言えるのですが、逆に言えば、歌舞伎好きなら決して知らない者はない場面ばかりを演じるのですから、演じる側の緊張感は並大抵ではなかったはずです。
 
 しかも、音羽家演劇同好会のメンバーのほとんどは、二つ以上の演目を掛け持っていました。
 例えば、本章の主人公・越後久左ヱ門さんですが、同好会での芸名は〈多喜之助〉でした。パンフレットの〈出演者役割〉を見ると、「丸橋忠彌 辨天小僧 白須賀六郎〈注1〉 多喜之助」となっています
 そして、おそらくこの会で力量を認められていた人は、〈多喜○○〉という芸名を名乗ったのでしょう。様々なお芝居に出演していたようです。ともあれ、以下に〈多喜○○〉ではない人も含めて、掛け持ちが多い方をご紹介しますと……
(カッコ内はその役名の人物が登場する演目。筆者による注。)

房之助
弓師藤四郎(慶安太平記) 松王丸(菅原伝授手習鑑) 半兵衛(艶姿女舞衣) 梶原平次(曽我物語) 日本駄右衞門(白波五人男)

松玉
塩谷判官(仮名手本忠臣蔵) 孫右衞門(傾城恋飛脚) 半七(艶姿女舞衣) お園(艶姿女舞衣) 頼朝公(曽我物語) あんま(忠臣蔵) 忠信利平(白波五人男) 可内(仮名手本忠臣蔵)

松五郎
若狭之助(仮名手本忠臣蔵) 忠兵衛(傾城恋飛脚) 宗眼(艶姿女舞衣の「宗岸」の誤植か) 番頭与九郎(白波五人男) 可助(不明〈注2〉)

多喜昇
五郎丸(曽我物語) 鳶の吉(白波五人男の「鳶の吉三」か) 武田勝頼(本朝二十四孝) 赤星重三(白浪五人男) 伴内(仮名手本忠臣蔵の「鷺坂伴内」か)

多喜春
高野師直(仮名手本忠臣蔵) 御台(菅原伝授手習鑑) 母お幸(艶姿女舞衣) 仁田四郎(曽我物語) 幸兵衛(白波五人男) 謙信(本朝二十四孝)

多喜蔵
春藤玄蕃(菅原伝授手習鑑) 団子山(不明〈注3〉) 五郎時宗(曽我物語) 南郷力丸(白浪五人男) 原小文吾(本朝二十四孝)

……というわけで、これらの方々はほとんど出ずっぱりです! 一つの役が終わるとサッと袖に引っ込み、すぐに衣装を着替え、次の演目に備えてスタンバイしていたのでしょう。

 それにしても、この中で、松玉(しょうぎょく)さんという人も大したものです。なぜなら、この方は、「艶姿女舞衣」という一つの芝居の中で、半七・お園という夫婦を一人二役で演じていたからです。
 実は、それが可能となるには理由があります。半七とお園は、訳があって関係が破綻しかけている夫婦です。そして、クライマックス近くの〈三勝半七酒屋の場〉では、お園が半七の書き置きを読んでそれまでの裏事情を知るシーンがあるのですが、この場面の演出法の一つに、ショックを受けて退場したお園役(女形)が、残りの家族三人が書き置きの続きを読み上げている短い間に扮装を変え、廻り舞台で半七(立役=男役)となって現れる、というバージョンがあるそうなのです。
 松玉さんの配役が「半七、お園」となっているのは、まさしくそれを示しているのでしょう。また、この演出が可能だったのは、この時の会場が中央座だったからでした。「第11回 〈音羽家演劇同好会〉発足!」の回の写真でおわかりのように、中央座には廻り舞台があったのです。

 この松玉さんも演劇同好会のメンバーですから、当然、役者が本業ではなく、小樽花園町あたりの商店主だったのでしょう。
 その上、短時間に扮装を変えるとなれば、衣装も早替わりのための〈引き抜き〉が出来るものを用意しなければなりません。一瞬で重ねた部分がきれいに取れるように、縫いつけ方を工夫した衣装です。
 もちろん演者一人で早替わりは無理ですから、上手に手助けできる〈後見〉がいなければならず、かつらも不自然でないようにつけ替えねばならず……だとすると、どの技術も生半可なことでは、ただのドタバタになってしまいます。しかも、それが二日続き!

 付言しますと、この半七・お園の一人二役は〈三勝半七酒屋の場〉に必須なわけではなく、立役と女形がそれぞれ演ずるのが普通なようです。つまり、本職の歌舞伎役者にとっても、この早替わりは、成功すれば拍手喝采間違いなしの見せ場ですが、それだけに難しいのだと思われます。それに、弁天小僧と同じで、早替わり前後の女役と男役を演じ分ける演技力もなければなりません。

 そう考えますと、改めて、小樽の素人演劇同好会は、どれだけ芝居に入れ込んだのか?! という話になります。本番では、衣装やかつら着けの人は東京から招いたとのことですが、その事を含めて——なにしろ、時間との戦いになる早替わりが一発勝負でうまく行くはずはありませんから、会員たちだけで、何度も本番に近い条件で稽古していたに違いなく——その凝り方は、ただ事ではありません。決して、越後久左ヱ門さんこと〈多喜之助〉だけが、マニアックさで突出していたわけではなかったのです。松玉さんも、他のメンバーも、みんな若い頃から舞台の袖で、役の演じ分け方や早替わりのタイミング等を、プロから〝盗んで〟いたのでしょう。

 なお、このプログラムからは、さらに気づく事があります。出演者に〈和子〉〈禮子〉〈弘子〉など〈子〉がつく人がいて、忠臣蔵のお軽や、八重垣姫などを演じたようです(小太郎、伴内などの男役もやってはいるようですが)。これは、演劇同好会に女性も含まれていたことを示しているのではないでしょうか。芸者衆の協力という線も否定はできませんが、それならばプログラムには〈○○奴〉〈○糸〉などの芸名を出した方がお客さんを呼べるでしょうから、やはり〈和子〉さんたちは、商店街の方々ではなかったかと思われます。

 そして、配役の最後の行には「大名 村の者 雑兵 捕手  大ぜい」と……。ここから空想を広げると、演劇同好会の会員ではない小樽の人たち(商店の従業員か、近所の住人でしょうか)が衣装をつけてもらい、その他大勢として舞台の上に立って、しばしの役者気分を楽しんだ様子が目に浮かぶようです。
 音羽家演劇同好会の大会は、小樽の祝祭空間である花園町の演芸館エリアにおいて、数多くの地元の人々と東京からの助っ人が協力して作り上げた、〝これぞまさしく祝祭〟の二日間だったのです。


〈注1〉 白須賀六郎は「本朝二十四孝」の上杉謙信の家来。戦況を報告する〈御注進役〉として登場する。

〈注2〉 可助(べくすけ)は歌舞伎で主に下僕に付けられる名前である。可内(べくない)も同じく下役の名。固有の人名というよりは、その人物の物語内での立場・役割を表示している。

〈注3〉 団子山は「双蝶々曲輪日記」に登場する相撲取りの名前。しかし「双蝶々曲輪日記」はこの大会のプログラムにはない。あるいは誤植か。


〈付記〉 これまで、久左ヱ門氏のご子息からは、演劇同好会の舞台は昭和6年から8年と伺っており、そこから、第三回の同好会の春季大会は昭和8年と推定してきた。また、上記画像においても、プログラム冒頭部に「昭和8年」という書込みが見られる。
 しかし、プログラム記載の月日をもとに複数の曜日計算サイトを使って計算してみたところ、昭和8年の3月16日と17日は、どうしても木曜と金曜にしかならない(なお昭和6年だと月・火、昭和7年は水・木)。3月16・17日が土・日になるのは、昭和10年か、そうでなければ昭和4年である。だが、音羽家演劇同好会の〈三回目〉春季大会が昭和4年と考えると、一回目は昭和2年となり、ずいぶん年を遡ってしまう。また一方、土・日でなければこうしたボリュームのある催しは開かれないであろうし、さらに、多くの人に配るプログラムの日にちを間違えたままにしていたということも考えにくい。
 これらの事から、音羽家演劇同好会の大会は、少なくとも昭和10年までは続いていたと見るべきではないかと思われる。さらに、そうだとすると、これまでご紹介してきた越後久左ヱ門氏の舞台写真も撮影年がずれる可能性が出てきたが、また他方、大会は〈春季〉ばかりでなく秋季など別の機会があった可能性もあるので、一概には言えない。