第18回 戦中・戦後も貫いた矜持

 さて、これまでお話してきましたように、大正時代には小樽の市井人の間で芸能文化が大きく花開いた訳ですが、昭和期に入りますと、その自由闊達な活動にも次第に制限がかかるようになります。
 そもそも、プロの演劇界にしても、新劇の内容がいちいち検閲を受けるようになったのはもとよりですが、実は能・狂言などの古典芸能に至るまでも、次第にプロットやセリフを天皇礼賛的・軍国讃美的にすり替えなければ上演が難しくなってゆきました。一例として、内地(本州)での事ですが、昭和14年頃には、平家物語の末尾の後白河法皇が登場する能楽の名場面「大原御幸」さえ、〈皇族が登場するのは不敬にあたる〉として上演が出来なくなったというのですから、実に窮屈な時代だったと言えます(※注1)。
 また映画も、政府によって、戦況を伝えるニュース映画に力が入れられる一方で、国策に沿わない映画の製作は制限され、映画会社も強制的に統合させられていきました。
 まして一般の人々の生活となれば、仲間同士の趣味の舞台が出来るどころか、基本的に〈ぜいたくは敵〉。芸事の楽しみなどは、どんどん日常から姿を消してゆきました。

 しかし、そこで暗い思い出話にばかりのめり込んでいかないのが、小樽人の心意気。越後久司氏は、戦時中の珍しいエピソードを聞かせてくださいました。越後久左ヱ門さんが軍を慰問し、〝その中の一番偉い人、渡辺閣下がそれを見て大変褒めてくれた〟というお話です。

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第14回 音羽家の演目は密度ぎっしり!

 さて、前回から少々間が空きました。
 その間、時間の合間を縫って、2017年の小樽文学館「芝居小屋・演芸館・映画館展」の際の保存資料を見返しておりましたら、〈第三回音羽家演劇同好会春季大会〉のプログラムのコピーが出て参りました。折角ですので、お話の流れは前後しますが、大会で実際にどんな演目が掛けられたのか、ここにご紹介しておきましょう。
 実は、上記展覧会に展示もされたこのプログラムですが、このたび丁寧に見直してみるまで、私自身、何となく、演劇同好会の大会は一回につき一演目だったような錯覚をしていたのでした。
 ところが、何と。それはトンでもない勘違いだったのです!

 初日の順序
一 慶安太平記 堀端の場 一幕
二 傾城恋飛脚 新口村の場 一幕
三 曽我物語 敷皮問答の場 一幕
四 菅原伝授手習鑑 松王下屋敷の場 一幕
五 本朝二十四孝 十種香より狐火迄(まで) 二場
六 忠臣蔵三段目 刃傷より道行迄 二場
七 艶姿女舞衣 三勝半七酒屋の場 一幕
八 白波五人男 浜松屋より勢揃迄 二場

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第12回 人には見せず積む努力

 切られ与三郎や弁天小僧など、いずれも有名な見せ場のある役を担っていたのですから、その事実だけでも、越後久左ヱ門の演技力がどれほど皆に評価されていたかが察せられます。しかし久左ヱ門は、ただ自分の天性のみで演じていたわけではなく、役作りのために地道な努力を重ねていました。
 と言って、先にも少し触れましたように、小樽の商店主は皆、普段は家業で忙しくしています。それに、息子さんの話によりますと、久左ヱ門さんは、家では絶対に芝居の稽古をしている姿を見せず、踊りさえ見せなかったとのこと。とすると、いったいどこで、どんな風に修練を?という疑問が起こってきますね。

 その方法は、非常にユニークなものでした。

 例えば、〈浜松屋の場〉での弁天小僧の役。舞台に登場する時には、たおやかな武家娘の姿で出て来ます。あらすじをご説明しますと、この娘が、呉服店浜松屋で美しい布地を懐に入れるようなしぐさをしたことから、万引きだと見とがめられ、番頭にソロバンでぶたれて、額にケガをします。しかし、実はその品は他店のものでした。すると、娘のお供の若党(もちろん弁天小僧とグル)が〝嫁入り前のお嬢様に傷がついた〟と騒ぎ始め、さあどうする、とすったもんだ。結局、店から百両の示談金を受け取ることで、決着がつきそうになります。

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第11回 〈音羽家演劇同好会〉発足!

 しかし、越後久左ヱ門が舞台での唄や踊りに熱を込めたのは、単に仲間と一緒に芸事をするのが楽しかったからだけではありません。

 改めてご紹介しますと、久左ヱ門は、明治28年(1895)11歳の年に、石川県羽昨郡末森村から北海道に渡って来ました。年齢からみて、家族と一緒だったのでしょう。そして小樽の祝津学校〈注1〉に学んだ後、入舟一丁目のイチマス舛田商店(陶器・雑貨卸問屋)で丁稚奉公。日露戦争時には歩兵として入隊しましたが、明治39年(1906)に除隊した後はもう一度舛田商店に御礼奉公し、そして明治44年(1911)、27歳で花園町の畑14番地、現在の店舗の向かい側に独立出店したそうです。

当時、久左ヱ門の店の裏手、のちに演芸館が林立する所には、まだ山の痕跡が残っていました。明治38年までは、現在の花園町のど真ん中に小山があったわけで、この山が急速に切り崩されて街が造られていった様子については、以前「ブラタモリ」(2015年11月14日放送)で紹介されています。明治44年頃でも、小売りをしていたのは、その辺りでは久左ヱ門の店だけだったそうで、ですから文字通り、花園町で最も古い店舗であったと言えます。

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第10回 「おい、ちょっと、あの芸盗めや」

 さて、久左ヱ門さんの店・越後屋陶器店の位置は、花園第二大通り、現在の国道5号線沿いです。また、平行したもう一本の通り、花園第一大通りには、小樽の中心部を占める長い商店街が形成されていました。
 当時は、第一大通りの方が比較的メインの商店街だったとのことですが、〈大売り出し〉などを開催しようという話になると、第一大通りの商店主さんたちから「お前たちの店も仲間に入れ」と、第二大通りの商店主に声がかかってきたとのこと。つまり、それだけ、第一と第二大通りの商店街は連携しており、気持ちの上でも親密だったわけです。

 そして、この第一大通りと第二大通りを結ぶ〈花園公園通り〉こそ、小樽市内でも殊に演芸館が林立するところでした(下図参照。「第3回「演芸館が〈濃い〉小樽」と共通)。
 住吉座あらため錦座(のち松竹座)や、大正6年まであった花園座、明治末から大正初年に開いた演芸館(という名称の館)、公園館、寄席の八千代館などなど…。水天宮からまっすぐに降りてくる道の道筋に立ち並んでいるさまは、まさしく、日常でありながらの〈祝祭のトポス(場)〉だったと言えます。

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