第18回 戦中・戦後も貫いた矜持

 さて、これまでお話してきましたように、大正時代には小樽の市井人の間で芸能文化が大きく花開いた訳ですが、昭和期に入りますと、その自由闊達な活動にも次第に制限がかかるようになります。
 そもそも、プロの演劇界にしても、新劇の内容がいちいち検閲を受けるようになったのはもとよりですが、実は能・狂言などの古典芸能に至るまでも、次第にプロットやセリフを天皇礼賛的・軍国讃美的にすり替えなければ上演が難しくなってゆきました。一例として、内地(本州)での事ですが、昭和14年頃には、平家物語の末尾の後白河法皇が登場する能楽の名場面「大原御幸」さえ、〈皇族が登場するのは不敬にあたる〉として上演が出来なくなったというのですから、実に窮屈な時代だったと言えます(※注1)。
 また映画も、政府によって、戦況を伝えるニュース映画に力が入れられる一方で、国策に沿わない映画の製作は制限され、映画会社も強制的に統合させられていきました。
 まして一般の人々の生活となれば、仲間同士の趣味の舞台が出来るどころか、基本的に〈ぜいたくは敵〉。芸事の楽しみなどは、どんどん日常から姿を消してゆきました。

 しかし、そこで暗い思い出話にばかりのめり込んでいかないのが、小樽人の心意気。越後久司氏は、戦時中の珍しいエピソードを聞かせてくださいました。越後久左ヱ門さんが軍を慰問し、〝その中の一番偉い人、渡辺閣下がそれを見て大変褒めてくれた〟というお話です。

 このお話に符合する事実はないかと調べてみますと、陸軍船舶司令部、通称〈暁部隊〉として知られる一隊が、いっとき、小樽に拠点を置いていたことがありました。昭和19年6月から、昭和20年5月までのことです。
 その間の、日付は定かではありませんが、部隊の慰問のため、芸事に秀でた小樽の人々、かの久左ヱ門と家族・友人らが、並み居る将校と兵士の前で粋を凝らした芸を演じたのです。

 場所は、議事堂(小樽市議会議場)を舞台とし、久左ヱ門さんとその娘さんが日舞を、息子の久司さんが詩吟を披露。また、魚屋を経営していた魚松さんは、両膝にお面をつけるという演出で〈かっぽれ踊り〉を踊りました。
 それらは、兵士からの喝采を博したばかりではありません。渡辺閣下(これはおそらく渡辺信吉少将のことでしょう)も「色々な所で慰問を受けて来たが、今日ほど品のある芸を見たのは初めてだ」と、なんと異例なことに、演者たちに直接御礼の言葉を述べたというのです。

 この言葉、決して単なるお世辞だったとは思われません。
 なぜなら戦時中の軍隊は、〝お国のために働いている兵隊さんのために〟ということで、慰問を受けることは決して珍しくはありませんでした。しかもこの頃は戦争末期ですから、暁部隊の人たちも、言葉は悪いが〝慰問ずれ〟していたはずです。そういう人たちが小樽の素人衆の芸を見て喝采してくれたのです。渡辺閣下は、いわゆる芸人の慰問とは違う、市井の人々の真心に感じ入った様子だったとのことです。

 相手が軍人であろうと将校であろうと、決しておもねることなく、その賞讃を獲得する。これこそ、どんな時代でも矜持(プライド)を忘れず、人の見て居ないところでの研鑽をおこたらなかった、小樽の市井の芝居巧者・踊り巧者の面目躍如。単なる戦中の苦労話とはひと味ちがう、痛快なエピソードと言えるでしょう。

 このお褒めの言葉によって気持ちを新たにしたのか、久左ヱ門さんは、さらに身の芸に精進を重ねて行きました。当時の〈歳末扶け合い運動〉に協力するため、市の議事堂・松竹座・中央座・市民会館などの舞台で久司氏と親子共演し、話題になったこともあったとのこと。極めた芸は、人のお役に立ったばかりではなく、次の世代にも受け継がれていったのですね。

注1
茂山忠亮「阪神能楽組合に見る能楽界の変革と戦時体制」 『コア・エシックス』14号 2018年3月 立命館大学大学院先端総合学術研究科