第7回 新しい〈商人〉の理念

 〈白夜会〉がリードした、大正5〜6年頃の美術展。
 また、メンバーが替わり、〈緑人社〉(りょくじんしゃ)となってからの、大正10年代の様々な展覧会。
 さらにこの間に『おれたち』という雑誌の刊行あり、そのすぐ後には、小樽の文学史上重要な文芸雑誌『群像』の編集活動あり。
 加えて、〈啓明会〉による文化人を招いての講演会や、〈アポロソサエティ〉のレコードコンサート、外国人ミュージシャンの生演奏、etc…が小樽で繰り広げられるわけですが、これらの実現に高田紅果が深く関わっていたことと、その理由とは、前回までの稿でお分かりいただけたかと思います。
 
 もちろん、単に紅果一人の力で、これらがすべて可能になったとは思われません。紅果自身、例えば手紙の中で「会(※アポロソサエティ)のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ、すこしづつでも恁(こ)うした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね」(早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)と書いています。これなどは決して「全部自分が買った」というニュアンスではありませんから、おそらく他の会員たちが寄附してくれたりしたものを集めて、当時高価だったレコードを増やしていったのだと思われます。
 要するに、紅果が力を尽くしたのは、〝文化的なことには意義があるよ〟と人の気持ちに働きかけることであり、では、それを何かの形にして世に表現しようとなった時に、皆のためにその場を用意すること、そしてそれが立派なものになるように、最適な演出を考えることであったと思われます。

 それにしても、高田紅果という人の立ち位置には、独特なところがあります。

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第1回 市井人が織りなす文学史

 今、小樽の街は静かです。
 つい数ヶ月前まで、多くの観光客や地元の人が行き交っていた街路には、人影もまばら。いつも旧手宮線のレールの上を、平均台のようにバランスをとりながら、楽しげに歩いていた子供たちの姿も見えません。明るい日射しだけが線路に満ちています。
 休館中の事務室でキーボードを叩いていると、この街に〈賑わい〉があったこと自体、遠い夢だったような気がしてきます。

 しかし、今から百数十年前の小樽は、昨今とは比べ物にならないぐらいの活気に満ちていました。いえ、明治・大正時代だけではなく、その勢いは続きに続き、昭和40年代に産業エネルギー転換(石炭→石油)によって炭鉄港・小樽から多くの企業や銀行が去るまでは、ここは、地熱のように内側から沸き上がる熱気に溢れた街でした。

 え、「歌うことなき人々の声の荒さ」ですって? 確かに、小樽についての、そんな言葉もありましたね〈注1〉。しかし、それは表面的な印象というもの。小樽の人は、ちゃあんと〝歌う〟ことを知っていました。伝統的で雅びな情趣を美しく詠いあげる人もいれば、荒々しいなりに、力強く真情を吐露する人も居て…。それぞれが自分なりのやり方で、歌ったり、書いたり、表現したりしていました。それが、昔の小樽の人々だったのです。

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