第7回 新しい〈商人〉の理念

 〈白夜会〉がリードした、大正5〜6年頃の美術展。
 また、メンバーが替わり、〈緑人社〉(りょくじんしゃ)となってからの、大正10年代の様々な展覧会。
 さらにこの間に『おれたち』という雑誌の刊行あり、そのすぐ後には、小樽の文学史上重要な文芸雑誌『群像』の編集活動あり。
 加えて、〈啓明会〉による文化人を招いての講演会や、〈アポロソサエティ〉のレコードコンサート、外国人ミュージシャンの生演奏、etc…が小樽で繰り広げられるわけですが、これらの実現に高田紅果が深く関わっていたことと、その理由とは、前回までの稿でお分かりいただけたかと思います。
 
 もちろん、単に紅果一人の力で、これらがすべて可能になったとは思われません。紅果自身、例えば手紙の中で「会(※アポロソサエティ)のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ、すこしづつでも恁(こ)うした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね」(早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)と書いています。これなどは決して「全部自分が買った」というニュアンスではありませんから、おそらく他の会員たちが寄附してくれたりしたものを集めて、当時高価だったレコードを増やしていったのだと思われます。
 要するに、紅果が力を尽くしたのは、〝文化的なことには意義があるよ〟と人の気持ちに働きかけることであり、では、それを何かの形にして世に表現しようとなった時に、皆のためにその場を用意すること、そしてそれが立派なものになるように、最適な演出を考えることであったと思われます。

 それにしても、高田紅果という人の立ち位置には、独特なところがあります。

 彼は、昭和5年から昭和20年の退職に至るまで奥田商会(のち、日本火災海上保険会社札幌支店小樽支部)の代表を務め、昭和10年には北海道経済使節団の一員として満州に赴くなど、重要な立場についていました。小樽の経済界では、誰もが知る人であったと思われます。しかし、本稿でご紹介してきた方面での活躍は、ほとんど世に知られていません。実際、早川宛に書かれた手紙と、そこに記された日付から探しあてた新聞記事とが、記録としてはほぼ全てです。その意味では、驚くほど控え目だったと言えます。

 そもそも、若くして相場で大当たりを取ったはずにも拘わらず、彼が、世間に対して自分が富裕であることを誇示した痕跡はまったく見当たらないのです。ぜいたくな趣味に大枚をはたくこともなければ、政治方面に打って出ることもしませんでした。おそらく、惜しみなくお金をつぎ込んだのは、仲間と共に造り上げる文化事業に対してのみだったのです。
 また、それを言えば、彼の友人たちも同様です。早川三代治にせよ、戸塚新太郎、船樹忠三郎にせよ、遺族からお話を伺ったり資料を見たりすれば〝ああ、ゆとりのある生活だったのだな〟ということはある程度分かります。でも、それで派手なふるまいをした様子はなく、むしろ、生活感覚は堅実であったように感じます。

 おそらくそれには、彼らの性格に加えて、近代における〈商人〉の新しい理念が強く影響していたのでしょう。

 儒学思想の強かった徳川時代には、商人は〝金銭的な利害で動く者たち〟という理由で卑しめられ、社会階層としては士・農・工・商と、最下位に位置づけられました。経済的実力をつけて武士にお金を融通するようになってさえ、長らく、証文上は〈武士から商人に貸した〉という形式にされる(これはただ武士階級のプライドを傷つけないため)など、理不尽な条件をのまなければやっていけませんでした。
 しかし、海外と通商が結ばれるようになってからは、立場が逆転。もちろん政府も大事ですが、商人たちが諸外国と貿易で堂々と渡り合えることが、先進国の大前提となったのです。
 そうした新時代の商人の理想像を端的に言い表した言葉が、小樽高等商業学校(明治44年開校)初代校長・渡邊龍聖の『乾甫式辞集』〈注1〉の中にあります。

 有無不関時代の商人の所謂町人根性というような品格では、今日の社会の存立をすら危くする恐れがある。これに加え、対外関係上、国の位置をも危くする恐れがある。今日の商人は、智識技能は勿論、その品格の上でも、国民の上位を占むべき資格を備えねばならない。要するに紳士中の紳士、智識徳望共に紳士中の紳士でなければならない。(現代語訳)〈注2〉

 紅果やその友人は、小樽高商で学んだわけではありません。しかし〝商人こそがこれからは国際社会の中で国を動かす。だから品格・知識・徳望ともに紳士の中の紳士でなければならないのだ〟という理念は、単に渡邊龍聖のみならず、多くの商業学校やメディアから発信されたはずですし、当時の若手の商人たちにとっては、心ときめく新鮮な発想として受けとめられたと思われます。まして、紅果の仕事は、国際貿易の最前線に関わるものでした。

 また、紅果に関していえば、社会的な福利についての問題意識が強かった理由は、彼が幼い頃に育ってきた環境にもあったと思われます。

 私達の國には裏長屋といふものがある。不潔で臭氣が漂つて、何時でもオシメが乾してあつたり、塵埃が小さな塵箱から溢れてゐたり、下水の水が流れずに路地を浸して、踏板が浮いてゐる。そして赤児や子供が交る交るに泣き叫んで空腹とか寒さとか、そんな不平を喚き叫んでゐるのを折々見る。私も長い間さうした裏長屋の生活をして來たから、よく記憶に殘つてゐる。そして何故あゝした人達を尠(すくな)くももつと自由な——彼等が要するだけのものだけを與へ得る世が來ぬのだらうと、しみじみ思ふ。あの人達すべてが暖かい飯にありつかれる共産食堂とか、無料で入浴の出来る共同浴場とか、たとへ埋まるやうな贅澤(ぜいたく)な厚い絹の布團(ふとん)でなくとも、寢るに暖かな布團を備えた、無料宿泊所とか、更にあの人々が進んで自由に樂しく從業するを悦ぶ工場とかゞ何故早く出來ないのだらう。
(高田紅果「青い壁に向つて」 『白夜』第1巻第3号 大正4年11月 太字は引用者)

 24歳の紅果が書いた文章です。思い出は、彼の父が小樽で地歩を固める前の時期のことと思われます。これが書かれた大正4年は、ちょうど紅果自身が豊かになり始めた頃と思われますが、社会の暗い片隅で何の希望も慰めもなく暮らす人々の姿を、彼は忘れることが出来なかったのでしょう。

〈注1〉渡邊龍聖述『乾甫式辞集』 名古屋高等商業學校 昭和4年(1929)9月〜昭和10年(1935)11月

〈注2〉現代語訳は、小樽高商史研究会編『小樽高商の人々』(小樽商科大学 平成14年・2002)による。