前回までお話ししましたように、ほぼ独力で芸を磨いていった越後久左ヱ門さん。仕事は仕事、芸は芸とわけるのではなく、芸を仕事に生かし、また、仕事をそのまま芸の修練の場とするのが独自のスタイルであったようです。
その当時、小樽には遊郭(ゆうかく)が2箇所ありました。松ヶ枝遊郭(南廓 なんかく)と梅ヶ枝遊郭(北廓 ほっかく)。いかにも雅びな名前で、現在もその名は町名として残っています。
遊郭というと、今の人は単に風俗店のひしめく歓楽街を想像するかも知れませんが、遊郭の機能はそれだけではありませんでした。当時の賓客(ひんきゃく)、いわばVIPを接待する場所として、規模の大きな街だと遊郭は欠かせなかったわけで、ですから格の高い大きな妓楼(ぎろう)が存在するということは、その時代には、街の人々にとっては一種のプライドでもありました。
また、そういう所でお座敷をつとめる芸者衆も、三味線や唄・踊りに高度な芸の力を要求されました。地元の旦那衆を楽しませるだけではなく、東京や、本州の大きな街からの接待慣れしたセレブなお客をもてなすのですから、なおさらの事です。
そして、久左ヱ門は陶器屋として、南廓に出入りしていました。特に、南廓の中でも名高い鯉川楼(こいかわろう)は、大切なお得意様でした。
何しろ、鯉川楼クラスの妓楼に抱えられる花魁(おいらん)のためには、大名家のお姫様の嫁入りレベルの衣装・調度が取りそろえられたそうです〈注1〉。例えば、家具ならば入船町のカネタ本田(カネタは屋号。┓に田)のものを。高価だけれど、間違いのない高級品が揃う、という風に。同様に〝陶器ならば越後屋陶器店〟と認められていたのです。つまりは、〈南廓出入り〉は、業者さんにとって、品質保証のお墨付きを得たのと同様でした。
ところが、越後久左ヱ門の活躍は、出入り業者としてだけではありませんでした。
見世(=店)が賑わい、忙しくなると、番頭さんも数ある座敷のご挨拶に廻らなければなりませんが、なにせ体は一つで、廻りきれません。
そんな時です。番頭さんは、出入り業者の久左ヱ門に「越後屋さん、済まないけど、部屋のお客さん、ちょっと仕切ってや」と声をかけたといいます。演芸館で舞台を踏んでいる技量を見込んでの頼みです。
すると久左ヱ門、越後屋の半纏(はんてん)をスッと脱いで、鯉川楼の半纏に着替える。そして、いかにも番頭といった風情で、お客と芸者で賑わう席に入ります。舞台で鍛えているので、客あしらいが上手い。座持ちが良く、お客様を飽きさせない。芸者衆の音曲と絶妙に呼吸を合わせて、芸を披露することもできる。まるで接待そのものが、芝居のようであったといいます。
そのように上手にピンチヒッターをつとめることが何度もあったので、ある時番頭さんから、本気で「越後屋さん、そんな商売(陶器屋)してないで、うちで番頭やってくれない?」と誘われたことがあったそうです。そのリクルートに乗ることはありませんでしたが、久左ヱ門の、楼からの信頼は絶大なものでした。
さらには、遊郭ではありませんが、小樽きっての大料亭・開陽亭でのエピソードも残っています。
明治26年創業の魁陽亭は、道内最古の木造建築料亭と言われています。建物が最初に出来たのは、明治7〜13年頃とも伝えられています。一度大火に合い、経営者が代わった明治29年以降は、表記が開陽亭と改められました。
116畳相当ある2階大広間の〈明石の間〉では、日露戦争後の樺太国境画定会議後の大祝宴が催されたことがあり、また伊藤博文が宿泊したなど、歴史的な意味でも名高い所です。〈注2〉
そこは、ある意味遊郭にも増して、数多くの芸者衆と幇間がお客を楽しませ、一流のもてなしを行う一大宴会場でしたが、そこにも、越後久左ヱ門は出入りしていました。料亭の中にしつらえられた立派な舞台で、踊りを披露したこともあったそうです。
そして、時にはその舞台で、幇間(ほうかん)と芸くらべをしたこともあったとのことです!
幇間、別名たいこもち、または男芸者。誤解のないように付言しますと、彼らはゲイやホストではなく、お座敷を上手に話芸で盛り上げながら、唄や踊り、または気の利いたちょっとした芸などを披露する男性芸人です。その起源は戦国武将の話相手であった御伽衆(おとぎしゅう)だとも言われ、つまりは、伝統のある、座敷芸のプロ中のプロです。
その幇間と、久左ヱ門との芸対決。いわば男と男の真剣勝負だったとのことですが、一体どんな対決をしたのでしょうか? ちなみに当時の開陽亭には、一八(いっぱち)という人と、もうひとり、合わせて二人の幇間がいて、いずれも芸達者で知られていました。
その対決とは、久左ヱ門と幇間とが一対一で、互いに端唄の踊りを皆の前で舞ってみせる、という方法でした。
例えば、片方が〝では「こうもり」でいきましょう〟などと〈お題〉を出します。要するに、既存の端唄の曲目を指定するのです。すると芸者さんが、三味線をつまびきながら「こうもりが 出て来た 浜の夕涼み……」と唄う。それに合わせて、どちらが先かはその時によりますが、幇間が踊り、また久左ヱ門も踊ります。するとお客さんたちが、それを見ながら「一八の踊りがいいな」「いや越後屋の踊りは大したもんだ」などと色々言い、それで勝ち負けが決まるわけです。
そして、そのお題を踊り終えると、今度はもう一方が別のお題を…という風に続いたそうです。もし、少し難しい端唄で片方が知らないとなると、また今度開陽亭で再会するまで、宿題として覚えて来たとのこと。踊りも上手くなければならず、端唄の知識も積まねばならず、これは確かに真剣勝負です。
久左ヱ門は芸くらべのたびに、「あいつに負けてたまるか」と意地を燃やしたそうですが、また、それが楽しくてしかたがなかったと、後に語っていたそうです。やがて、二人に対抗すべく精進を重ねた結果、幇間衆の方が久左ヱ門の前では頭があがらなくなるほど、その芸に磨きがかかりました。
また、囃子方をつとめる芸者さんにしても、ベテランの人は良いのですが、少し若かったりすると、難しい端唄の曲目がわからず三味線が合わせられなかったり、何より、久左ヱ門の芸の力量にのまれて、歌詞が出て来ない、あるいは歌詞を抜かしてしまったりしたそうです。
久左ヱ門はおだやかに「お姐さん、唄が飛んだよ」と踊りながら指摘するのですが、そう言われると芸者さん、ますますあがってしまい「すいません、も一度最初から…」。でも、また同じところで間違える。そんなことを繰り返して、結局ベテランと交代する羽目になり、「今度からね、越後屋さんが踊る時、自分は弾けないなって思ったら、ちゃんと出来る姐さんに、はなから替わってもらわなきゃダメよ」とたしなめられる始末だったとか。
ともあれ久左ヱ門さん、そこまで一徹な気持ちで芸に精進したからこそ、お出入り先での人間関係も一段と広がり、ひいては店の信用を高めることもできたのでしょう。〈越後屋の大将〉と言えば、小樽の花柳界では知らぬ者がないほどになったそうです。
でもまた、玄人(くろうと)の芸人さん方にしてみれば、街の素人(しろうと)がそこまで自分の芸に肉迫してきて、ついにはこちらが負けてしまったりするのですから、小樽というのは気を抜いてかかれない、結構「いやな」街——悪い意味ではなく、敬意も込めて——であったのではないか、とも思われるのです。
注1 この回想から、花魁がその楼に勤める形態は、一種の〈嫁入り〉ないしは〈養女〉擬制であったことがわかる。
注2 海陽亭(昭和7年に開陽亭から改名)は、平成期以降は建物の劣化が問題となり、平成27年(2015)から完全休業となっていた。しかし、現在は〈日本遺産〉の一角を担う建物としての〈続100年再生計画〉により改修工事が進められ、2022年の開業が目ざされている。(2020.9.11)