切られ与三郎や弁天小僧など、いずれも有名な見せ場のある役を担っていたのですから、その事実だけでも、越後久左ヱ門の演技力がどれほど皆に評価されていたかが察せられます。しかし久左ヱ門は、ただ自分の天性のみで演じていたわけではなく、役作りのために地道な努力を重ねていました。
と言って、先にも少し触れましたように、小樽の商店主は皆、普段は家業で忙しくしています。それに、息子さんの話によりますと、久左ヱ門さんは、家では絶対に芝居の稽古をしている姿を見せず、踊りさえ見せなかったとのこと。とすると、いったいどこで、どんな風に修練を?という疑問が起こってきますね。
その方法は、非常にユニークなものでした。
例えば、〈浜松屋の場〉での弁天小僧の役。舞台に登場する時には、たおやかな武家娘の姿で出て来ます。あらすじをご説明しますと、この娘が、呉服店浜松屋で美しい布地を懐に入れるようなしぐさをしたことから、万引きだと見とがめられ、番頭にソロバンでぶたれて、額にケガをします。しかし、実はその品は他店のものでした。すると、娘のお供の若党(もちろん弁天小僧とグル)が〝嫁入り前のお嬢様に傷がついた〟と騒ぎ始め、さあどうする、とすったもんだ。結局、店から百両の示談金を受け取ることで、決着がつきそうになります。
ところが、店の奥にいた黒頭巾姿の武士が〝その娘の二の腕に桜の入れ墨があるのが見えた、娘などと言っているが、実は男だ〟と見破ります。そこで弁天小僧、開き直ってパッと肌をぬぎ、尻をまくって「知らざぁ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねぇ七里ヶ浜…」と自分の正体をとうとうと述べ始める。この見顕し(みあらわし。正体を明かすこと)の前と後のあざやかなギャップが最大の見せ場なわけで、ですから、そこまではほぼ完全に女に見えていなければ、ここで芝居が盛り上がりません。
そこで久左ヱ門、女性のしぐさを身につけるために、膝の間に半紙をはさみ、落とさぬように中腰で歩く練習をすることで、しずしずとした女足の使い方を体にたたきこんだそうです。誰かからコツとして教えられたのかも知れませんが、それで独習しつづけたというのがすごい。
また、もう一例、久左ヱ門が熱心に取り組んだのが、「慶安太平記」の丸橋忠弥の役作りです。
〈由井正雪の乱〉を題材にしたこの話。正雪の同志である丸橋忠弥は、小雨の中、酔っぱらって犬に石を投げるふりで、江戸城の外濠(そとぼり)に石を投げ込み、その水音で濠の深さを探ろうとします。江戸城攻撃の下準備です。しかし、その様子を、老中の松平伊豆守が目にとめてしまいます。伊豆守は、忠弥の微妙な目つきやしぐさの変化から怪しいと直感しますが、その場で問い詰めるような野暮(やぼ)はせず、スッと後ろから静かに傘をさしかける。雨が体に当たらなくなったことにハッとして、また酔っぱらいに戻る忠弥。余計なセリフは言わず語らず、しかし歴史的背景を知っていれば非常に緊張感あふれるシチュエーションという、これも歌舞伎の名場面の一つです。
久左ヱ門は、この忠弥をやることになったわけですが、困ったことに、自分はお酒が呑めません。酔っぱらった経験がないのに、酔漢の役をやらねばならない。しかもこの場面も、登場シーンで、呑んだくれた男の様子がリアルに演じられなければ、後半の緊迫感が生きてきません。
そこで久左ヱ門さん、どうしたでしょうか?
答えは〈夜、呑み屋の近くまで行き、電信柱の陰に隠れて、酔っぱらいが千鳥足で歩く様子をずっと観察していた〉です!
ある意味、場所的には幸いと言いましょうか、花園町は小樽の繁華街で、どこの小路にでもちょっと入れば、一杯呑み屋や料理屋には事欠きません。そこで夜、呑み屋街が賑わう時分に家を出て、電信柱の陰で、じっと酔客の様子を見つめていたそうです。
ただ、あまりに観察が熱心すぎて、ある時お巡りさんに「そこで何やってんだ?」と見とがめられてしまったとか。まあ、確かに、不審と言えば不審な行動で……。
でもまた、そうした努力を重ねたからこそ、〈音羽家演劇同好会大会〉で何度も主役級をつとめられるだけの演技力が培われたのですね!