しかし、越後久左ヱ門が舞台での唄や踊りに熱を込めたのは、単に仲間と一緒に芸事をするのが楽しかったからだけではありません。
改めてご紹介しますと、久左ヱ門は、明治28年(1895)11歳の年に、石川県羽昨郡末森村から北海道に渡って来ました。年齢からみて、家族と一緒だったのでしょう。そして小樽の祝津学校〈注1〉に学んだ後、入舟一丁目のイチマス舛田商店(陶器・雑貨卸問屋)で丁稚奉公。日露戦争時には歩兵として入隊しましたが、明治39年(1906)に除隊した後はもう一度舛田商店に御礼奉公し、そして明治44年(1911)、27歳で花園町の畑14番地、現在の店舗の向かい側に独立出店したそうです。
当時、久左ヱ門の店の裏手、のちに演芸館が林立する所には、まだ山の痕跡が残っていました。明治38年までは、現在の花園町のど真ん中に小山があったわけで、この山が急速に切り崩されて街が造られていった様子については、以前「ブラタモリ」(2015年11月14日放送)で紹介されています。明治44年頃でも、小売りをしていたのは、その辺りでは久左ヱ門の店だけだったそうで、ですから文字通り、花園町で最も古い店舗であったと言えます。
そんな時代に、まだ若くして自力で店を開業した久左ヱ門ですから、気概や負けん気は人並み以上でした。演芸館で踊りを踊ったりしたのも、好きだからという理由のほかに、〝演芸館なら色んな人が入って来るから、そこで自分の踊りを見てもらえば、店の名も広まる〟という思いもあったようです。
久左ヱ門は、踊りを披露する前に、よく、前口上で以下のような内容の挨拶をしていたそうです。
「私は越後屋のおやじ(店主)ですが、今日の踊りが、上手かったら上手いと、下手だったら、下手だというのでも構いません。店に来て、何も買い物はしなくてよいですから、その評判だけ聞かせてください。それが何よりの励みになります」と。それは、店主みずから体を張った、宣伝活動でもあったのでした。
さて、仲間がそれぞれ切磋琢磨し、自分たち同士が見ても、かなり上手に所作や踊りが出来てくるとなると、今度は、もっと先に進んでみたくなります。「これなら俺らがたで、芝居できねえか?」「できるぞ!」ということで、義太夫好きの面々が中心となり、歌舞伎の実現を目ざすようになりました。
先に少し触れましたように(第9回 小樽の演芸館と、踊る商店主)、浄瑠璃、義太夫、講談、歌舞伎などはその大元のルーツが重なり合っています。
もちろん、同じ題材を扱っていても、何もかも一字一句同じかといえば、そんなわけではないとのこと。でも、登場人物やストーリー展開が共通していて、見せ場・名場面もほぼ同じならば、まっさらの白紙状態から覚えるのとは大違い。あとは、持ち前の研究熱心さで、歌舞伎のナマの舞台を見ながら芸を盗めば良いわけです。
そして彼らは、ついに結成してしまいました! その名も〈音羽家演劇同好会〉。歌舞伎好きの方ならピンとくると思いますが、音羽家(おとわや)は、尾上菊五郎の屋号「音羽屋」にかけたものです。大向こうからの掛け声として、最も有名なものですね。この演劇同好会が昭和6~8年頃(久左ヱ門47~49歳)に、実際に演芸館で披露した時の舞台写真〈注2〉が残っています。
この〈音羽家〉の舞台は、素人芝居の域を超えた、実に凝ったものでした。衣装は東京からの取り寄せ。かつらつけや、化粧をほどこす人も、すべて東京から呼び寄せたとのことです。
越後家に現存する写真で、「樟紀流花見幕張」(くすのきりゅうはなみのまくはり)、通称「慶安太平記」を写したものには、何年かは書かれていませんが、これがおそらく昭和6年と思われます。昭和7年、第二回音羽家演劇同好会大会の演目は「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)、有名な切られ与三郎とお富の再会のシーン。昭和8年の第三回大会が「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)、通称「白浪五人男」でした。
そして越後久左ヱ門は、「慶安太平記」では丸橋忠弥、「与話情浮名横櫛」では切られ与三、「白浪五人男」では弁天小僧。そう、すべてにおいて、主役級の人物を演じていたのです。
〈注1〉 祝津学校は明治初期に小樽に出来た教学所の一つ。明治10年(1877)に量徳学校の分校となり、同14年(1881)に祝津学校と改称した。
〈注2〉 この写真では、せり(昇降する舞台装置)のそばの床を見ると、丸い継ぎ目の線が見えており、廻り舞台になっているのがわかる。当時の小樽の演芸館の写真や絵はがきに、舞台装置までわかるようになっているものはほとんどなく、貴重な資料と言える。