なお、これまでの話に付け加えるならば、高田紅果は、好景気の時や自分が裕福な時だけ文化活動をしたわけではありません。
大正の末からは、小樽も苦難続きでした。大正13年の手宮駅爆発事件〈注1〉、昭和初期の世界恐慌の影響、そして小樽市主催北海道博覧会開催と同日の盧溝橋事件勃発。そこから始まる日中戦争……。時代が進むにつれて、小樽の賑わいは次第に影を潜めてゆきました。
さらに〈大東亜戦争〉に突入してからは、小樽の商船も戦時中の人員・物資輸送にかりだされ、爆撃や雷撃を受けてニューギニア沖などに次々と沈没。小樽経済を牽引してきた海運業は、大きな痛手を被ったのです。
市民生活においても、全国的に、思想問題に抵触しそうな社会活動はすべて統制の対象になりました。講演会はもとより、洋楽コンサートや西洋画の展覧会などはもってのほか。出版業界も整理縮小。書店の店主たちは戦争に召集されて行き、やがて、廃業を余儀なくされた店も出てきました。
活気あふれた頃の小樽を知っている当時50歳前後の人々にとっては、実に淋しい限り……。高田紅果や、その旧友たちにとっては、味気ない日常の合間に古書店を廻ることだけがささやかな楽しみだったのですが、そこである時、フッと思いついたことが――