第2回 洋楽ひびく小樽の街

 それでは、まず、高田紅果が取り組んだ芸術・文化の普及活動のことからお話ししてゆくことにしましょう。
 大正11年、高田紅果は、ドイツに留学中の友人・早川三代治に近況報告の手紙を書きました。早川三代治は小樽出身で、のちに経済学者にして文学者という異色の存在になるのですが、その話はまた他日にゆずるとして……その早川に送った紅果の手紙の内容は、下記のようなものでした。

また明日は早稲田の学生音楽団が錦座で三十人程のオーケストラで音楽会を開くさうです。(中略)アポロの方も少し時世に鑑みて大きな事業を慎んで、レコード演奏の地方公演をでもやることにしました、先月手初めに岩内の木田君に招かれて行って来ました。(中略)
 旭川だの倶知安だのへ折りをみて行って来やうと心掛けてゐます 会のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ。すこしづゝでもこうした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね。
(大正11年9月8日)

 この文中の「アポロ」とは何でしょうか。
 実は、前回に少し触れましたように、紅果は〈アポロソサエティ〉という西洋音楽普及団体で活躍していました。会の詳細な記録は残っていませんが、当時の新聞記事には、しばしばこの名が見受けられます。また、紅果と友人との間に交わされた書簡類の内容から見ても、彼が中心的に活躍していたのは確かなようです。
 例えば、ここに出て来る〝レコード演奏の公演〟ですが、(レコードの公演? どこかの飲食店の小部屋でも借りてチンマリとやる鑑賞会では?)などとお考えでしょうか? さにあらず! 新聞も欄を割いて予告宣伝するほどの、力の入った催しだったのです。

曩(さき)に其第五回を開催して非常の好評を博した当区アポロソサイテイ主催の第六回レコード公開演奏会は来る六月二十四日午後七時から公園通美術倶楽部に於て開かれる曲目は左の通り

△第一部
一、オーケストラ歌劇カルメン「前奏曲」メトロポリタン管弦楽団
二、バリトンソロ カルメン「トレアドルの歌」ギユセツプカンパナリ
三、ヴアイオリンソロ「マヅルカ作品一九番」ユウゼンイザイ
四、ヴアイオリンソロ「カプリスバスク」ミツシヤエルマン
五、コントラルトソロ「歌劇ミニヨンのアリア」(シユーマン****)
六、混声六重唱「歌劇ルチア」ドニゼツチ作
△第二部
一、ヴアイオリン二重奏「コンセルト」エフレムヂンバリスト、フリツツクライラア
二、ソプラノソロ「セレナアド」エンマカルペイ
三、バスソロ「メフイストのアリア」(ウラヂミルバツハマン)
四、ピアノ独奏作品四七番(シヨパン作)
五、弦楽四重奏「作品」一八番二(ベエトウフエン)
六、セロソロ「ラルゴリー」(パブロカザルス)
七、混声合唱「ハレルヤコーラス」(ビイクター混声合唱団)

(『小樽新聞』大正11年6月23日)〈注1〉

 表記が昔風なのでわかりにくいですが、この少し前に日本での演奏が大きな話題を呼んだバイオリニストのミッシャ・エルマン(大正10年来日)、エフレム・ジンバリスト(大正11年来日)、のちに伝説の歌姫と讃えられる国際的ソプラノ歌手エンマ・カルヴェなどが含まれた、聴きごたえのありそうなプログラムです。それに、記事の出だしをよく見ると、もうすでに、こうしたレコードコンサートは、「アポロソサイテイ」の主催で5回も開かれていることがわかります。

 また、手紙に「先月手初めに岩内の木田君に招かれて」とあるのは、画家・木田金次郎のこと。紅果と金次郎とは親友同士だったのです。この時のではなく、2年後の大正13年3月1日に〈小樽アポロ、ソサイエテイ主催〉のレコードコンサートが岩内町の女子職業学校において開催された際の記録が、岩内白水会〈注2〉の資料に残っているのですが、その折には100名を越す聴衆が集まったのだとか! そこから推測するに、小樽の方でも、いつも相当の入りがあったからこそ、花園公園通りのような商店街中心部の、ほかの娯楽もたくさんある場所で、5~6回以上も開催されたのだと思われます。

 さらに文面には「旭川だの倶知安だの」へも折りを見て行って開催したい、という紅果の希望も書かれています。道内に西洋音楽を広めることに、大変熱心だったのですね。

 と言っても、高田紅果がレコードばかり人に聴かせていたかというと、そうではありません。大正11年2月19日の『小樽新聞』には、〈露国名流の演奏大会 公園館に開催〉というタイトルで、「大正11年2月28日」に「アポロ・ソサイテー主催」で、前ペトログラード帝室劇場附演奏家にしてバラライカの大家アレキサンダー・ドブロポフや、バレー及び舞踏の大家たるワシリー・クルビン、ピアニストとして名のあるナタリナ・ガリナ女史らが「公園館にて大音楽演奏会」を催すと予告されています。さすがはアポロ、ロシアから本物の音楽家たちも招いていたのです。

公園館 小樽花園町
公園館(花園公園通り)  小樽市総合博物館所蔵

 ちなみに紅果は仕事で樺太(現・サハリン)に時々行っていたらしく、彼自身『樺太から』という短編小説も書いています〈注3〉。小説には音楽家のことは書かれていませんが、もしかすると国境の島・樺太で、ロシア革命から逃れてきたアーティストたちとも接点があったのかも知れませんね。

 さらに手紙には、紅果とは直接関係のない公演ですが〝明日錦座で早稲田の学生音楽団が音楽会を開く〟とも書いてありますね。この頃の小樽には、様々な庶民の芸能を見せる演芸館が多かったのですが、こうして見ると、邦楽だけではなく、様々な西洋音楽も掛かっていたことがわかります。

 次回は、その演芸館についてお話しすることにしましょう。

〈注1〉文中「*」は新聞の文字がかすれて難読の箇所。また、新聞記事はなるべく原文のまま引用したが、明らかに誤字と思われる箇所は訂正した。

〈注2〉岩内白水会は、木田金次郎とその友人たちが結成した文化活動団体。

〈注3〉文芸雑誌『群像』第6号(小樽群像社 大正11年11月)掲載。なお、紅果は『群像』の編集者でもあった。

参考:亀井志乃『緑人社の青春』(小樽文學舎 平成23年)