さて、前回お話ししましたように、小樽では各演芸館がバラエティに富んだ演(だ)し物で観客を魅きつけていたわけですが、これが文化講演会や絵画展となると、他の施設も利用されていました。その好例が、公会堂や〈倶楽部〉という場所です。
ここで、高田紅果の書簡に戻って見ましょう。
此月(大正11年9月)は二日ばかり前に函館へ来てゐた変態心理研究の中村古峡氏を聘して講演会を開いた、公会堂でやったんですが百五十名程の人を集めました まづ成功の方でせう
(高田紅果 早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)
花の盛りの頃に私達の緑人社一派と、銀行の人達や所謂邦画の紳士連中の団体吟筆会と合同で展覧会を開いたものです。
(高田紅果 早川三代治宛書簡 大正13年6月29日)
※『小樽新聞』大正13年5月17日に「小樽公会堂で絵画展覧会」の記事あり
それから引き続いて、工藤君等の紹介で東京のアムボール会といふのが帝展二科春陽会を纏めた大家達と新進作家とを合せた大展覧会の斡旋をしました、仏蘭西作家のアスラン、藤田氏のフラウ バレー女子、ラプラード、ギヨマン、ジェレニウスキー、ザッキンなどいふ人々の物も少し加へられて嘗て北海道ではない位充実した会でした。
(高田紅果 早川三代治宛書簡 大正13年6月29日)
(上記関連記事)来る十四、五、六日の三日間、小樽公会堂に現代日本の洋画壇を代表するとも云へる、帝展、二科春陽会に属する中堅作家の殆ど大部分を集めた、大展覧会が本社及び北日本社後援の下に開催されることになつた。
(『小樽新聞』大正13年6月10日)
小樽市公会堂(旧小樽区公会堂)は、明治44年(1911)、当時皇太子だった大正天皇の北海道行啓の際の宿泊所でした。わずか2泊3日の滞在のために建てられた、実に風格のある〈御旅館〉。設計は、皇室関係の建築を多く手がけていた木子幸三郎の手になるもので、建築に関する費用のすべては、海運業で財を成した藤山要吉の寄付金でまかなわれたそうです。
行啓後は、まもなく公会堂(公衆が公益的集会を行う場所)として解放されたらしく、例えば『北海タイムス』大正6年9月10日付の、青年美術家・高田彌三吉〈注1〉が小樽で展覧会を行ったという記事にも、すでに「小樽公会堂」が会場名として記されています。
実は、日本で最も早い〈公会堂〉は、一般的には、大正7年竣工の大阪市中央公会堂とされています。一方、静岡県掛川市にある大日本報徳社大講堂は、明治36年(1903)建築で、当初は遠江国報徳社農学社公会堂と呼ばれていたそうで、こちらも日本初の公会堂として国の重要文化財に指定されています。
恐らくこのブレは、最初からフルに西洋理念を取り入れた洋風建築という所を取るか、それとも、近代和風建築でも機能は公民館という所を取るか、という歴史的価値づけの相違にもよるのでしょう。
ただ〝公衆の集会のための公共施設〟という意味では、小樽の公会堂も、さり気なく先端的な施設だったのですね。それに、古さも日本屈指。そして高田紅果は、講演に絵画展にと、公会堂を使いこなしています。大正13年6月には藤田嗣治やピエール・ラプラード、アルマン・ギヨマンなど、フランスの著名画家の絵も展示されたのですから、観客の方々にとっては本当にぜいたくな体験だったでしょう!
また、もう一つの〈倶楽部〉ですが、これは、当時のイギリスにあった伝統的な紳士の社交場をモデルとした会、および、その会の建物を指す言葉でした。小樽では〈実業懇話会小樽倶楽部〉通称・小樽倶楽部が有名でしたが(現存せず)、街の名士や有力実業家が集う所ではあっても、本場のClubほど厳密な会員制ではなかったとのことです。小樽市総合博物館によりますと、小樽の歴史資料『稲垣益穂日記』で名高い稲垣益穂先生(当時、小樽区稲穂尋常高等小学校校長)も時々遊びに行ったという記述が日記に見えるそうですので、割合に出入りの自由な場所だったのでしょう。
緑人社の洋画展覧会
当区青年洋画家溝淵健児及び「生れ出る悩み」の主人公として知られる岩内の木田金次郎、及び当区舟木忠三郎、高田紅果、戸塚新太郎、羽田圭四郎の六氏は今回緑人社を組織した、同人の過半数は素人であるが両三年の努力の結晶たる作品洋画展覧会を八日(土曜)九日(日曜)の両日小樽倶楽部に於て開催する事となつた、特別出品としては有島武郎、石井鶴三、平澤大暲、工藤信太郎氏の作品が陳列される
(『小樽新聞』大正10年10月6日)
この時の小樽倶楽部における催しは、岩内の青年漁夫画家・木田金次郎と、その小樽の友だちだった溝淵健児・船樹(舟木)忠三郎・高田紅果・戸塚新太郎・羽田圭四郎(本間勇児)、合わせて6名で結成した緑人社(りょくじんしゃ)初の絵画展でした。彼らの交友にもエピソードが一杯なのですが、とても語り尽くせないのでここでは措くとして……会場を写真で見ると、立派な洋館だったのですね(下の写真では遠くに小さくしか見えないので残念ですが)。この頃はみな20〜30代の若さ。彼らの誇らしい気持ちがしのばれます。
〈注1〉高田彌三吉は、高田紅果(治作)とは別人。大正6年10月23日『北海タイムス』に、高田紅果主催・高田彌三吉の詩及び戯曲朗読の会開催の記事が見える。