第5回 芸術が盛んなミラクルの街!

 前回までは、講演会や展覧会などの催しで、小樽の色んな施設をフルに使っていた高田紅果とその友人たちについてご紹介しましたが、実は、その活動は、大正10年代にとどまるものではありません。少なくとも大正5年(1916)頃から、彼らはもう、そういう活動を始めていたらしいのです。

 例えば、その年の6月28日には、『小樽新聞』に「オアシス羊蹄画会連合洋画会 七月一、二両日色内亭にて」という記事が載りました。内容は〝当区〈注1〉の洋画研究会である羊蹄画会の上田如神は、三浦鮮治・蛯子幸一らのオアシス会員と計画して、来る七月一日・二日の両日、色内亭〈注2〉においてオアシス羊蹄画会連合展覧会を開催する。日本水彩画会の平沢三味二(貞通)、船樹忠三郎らも応援で出品する予定〟というものです。
 船樹忠三郎と言えば、前回、名前が出ていましたね。この頃彼はまだ25歳前後。2年前には東京に出ていて、木下藤次郎が開いた日本水彩画研究所で学び、第一回二科展で入賞した気鋭の新人。そして小樽では、若き日の平沢貞通と一緒に、日本水彩画会の支部を立ち上げていました。
 また、その一方では、高田紅果の関わっていた雑誌『白夜』が〈捲土重来〉で再刊か!という記事が載っておりまして……。

〔雑誌『白夜』再刊〕
小樽区青年実業家アマチユアの一団は海鳥社以来の歴史を有して本年一月休刊せし機関雑誌『白夜』を再刊すべく来春早々捲土重来の戦備成れりといふ 尚会員中には雑穀澱粉等の成金あり本道出版界に極めて堅実なる奮闘振を示すべしとなり
(『北海タイムス』大正5年12月11日)

 「会員中には雑穀澱粉等の成金」という記述に σ(・_・?) となりますが、このお話は改めて次回に。まず注目していただきたいのは、この文芸雑誌が「小樽区青年実業家アマチユア」の歌人・文筆家によって構成されたものだったことです。
 この〈実業家〉を個人事業主という意味で取ると少々大げさですが、この当時の高田紅果の文学仲間だった藤田南洋(なんよう/武治)は商家の息子、布施哥夫(うたお/政一)や島崎島歌(とうか/庄一郎)も商店員だったそうですし、塚原花骸(かがい/辰吉)は紅果と同じ奥田商会の同僚でした。要するに、皆んな、いわゆるビジネスパーソンだったのです。
 また、後からグループに合流した出口豊泰は小樽新聞の記者。本間勇児は商社マン。早川三代治が北海道帝国大学の学生だったのは、多少毛色が違うように見えますが、実は彼も、小樽の大商店の長男でした。

 そしてさらに言えば、この彼ら、美術にことのほか興味がありました。船樹忠三郎を始め、小樽の若手洋画家たちとは友達同士。やがては美術グループを巻き込んで、展覧会を繰り広げることとなったのです。

〔工藤氏の羊蹄画会〕
当区富岡町二丁目六十六番地工藤信太郎氏の羊蹄画会にては本年四月より七月まで氏が蝦夷富士付近
に於て得たる自作油絵を頒つ事となりたり(中略)氏は自作に対し絶対に責任を避けざる自信あり 当区洋画家船樹忠三郎氏の如きも「近来画会といふものは多いけれど氏の作品のみは推薦に躊躇しません」と語りゐたり
(『小樽新聞』大正6年4月10日)

〔白夜会の印象 小樽の芸術味〕
青年美術家小樽白夜会同人高田彌三吉氏の絵画作品個人展覧会は既報の如く八九日両日小樽公会堂に開催された。受付卓上にペン画の絵葉書が多数(あまた)並べてあつた。『浮浪人と農夫』と『小樽海岸』は其裡(そのうち)の白眉だ。大広間へ張られた海老色のバツクの上へ掲げた白木や金縁の額面五十余点と詩を書いた色紙五十点鮮かに浮出てゐる。
(『北海タイムス』大正6年9月10日)

 高田彌三吉(おそらく高田紅果のいとこ)〈注3〉が開催した個人展覧会が「白夜会」となっているところが重要です。つまりこの時点では、〈白夜会〉は、文芸の同好会であると同時に、一種の美術結社でもあろうとしている。いえ、メンバーにとっては、文芸・美術の違いなどは重要ではなく、ただ若き心のおもむくままに〝ようし、自分たちも公会堂で展覧会をやっちゃおう!〟という意気込みで夢を実行したのでしょう。それにしても彌三吉の、額入絵画50点と、自作の詩でしょうか、その色紙も50点とは、立派な多作ぶりです。
 そして、彼らの多面的な活躍が大ブレイクしたのが、その翌月の10月でした。

〔羊蹄画会と黒土社と オアシス会と白夜会〕
院展や二科の刺戟でもあらふが最近小樽の美術界、殊に洋画が猛烈な勢で復活して来た。高田彌三吉一派の白夜会が去る八日小樽公会堂で烽火を揚てから、それが動機となり導火線となつて十五日黒土社第一回洋画展覧会が小樽倶楽部で催され、次いで来る二十三四両日には羊蹄画会の上田如神と、中央洋画界に知られた洋画家鈴木登両氏が此程、旭川近文でアイヌ写生に没頭し、得た改心の作品四十点の個人展覧会が小樽倶楽部に催される。更に長らく黙していたオアシス画会が第四回洋画展覧会を来月第一日曜(七日)に小樽倶楽部に、次いで第五回は第二日曜(十四日)札幌鉄道倶楽部で開催するさうだ。
商工業や取引の盛な物質主義、拝金主義の小樽。かうした荒むだ港町は概して文芸とか美術とか云ふ高遠な興味や芸術思想は皆無で、従つて斯うした画会も欠け勝なものだ、処が小樽は一面にかゝる趣味傾向のあるのは札幌より以上、寧ろ本道唯一と云ひたい程、盛んなものだ。一種の奇蹟的現象と云ひたい。而もそれが新進気鋭な青年画家のみである。小樽美術界未来の為に祝福して止まない。
(『北海タイムス』大正6年9月22日 太字は引用者)

小樽洋画界の創立
北欧の様な大陸的、原始的な本道の大自然は若い芸術家が瞑想的思索を辿るに相応しい背景(バック)である。自然に対する敬虔な新年と熱烈な情緒とに絵筆を揮つてカンバスに向つて余念なく習作してゐる小樽美術界の人々、羊蹄画会、登画会、オアシス画会、黒土社画会、小樽日本水彩画会支部、白夜画会等各派同人が小樽美術界前途工場発展の為に群雄割拠的態度を根本から打破して各派統一団結し茲に小樽洋画会なるものが組織された。曽て二科に三点とも入選した平澤大暲氏を初め、船樹忠三郎、三浦鮮治、蛯子幸一、工藤信太郎、北原清、兼平英二、高田彌三吉、東京の同人山崎省三、斎藤篤、金井白潮、中野五一其他中堅となり一昨六日の夜小樽倶楽部で万端打合せ愈々来十三日(土曜日)十四日(日曜)の両日、札幌の丸井呉服店へ乗り出し三階に於て第一回洋画展覧会を開催する事に決した。会員が心血を注いで描いた地方色豊な芸術的気分の漲つた優秀な百余点の油絵は軈て(やがて)賑しく幌都(こうと)観衆に見参するであらう
(『北海タイムス』大正6年10月8日)

 記事の要約は次の通り。
○高田彌三吉らの白夜会展覧会が火付け役となって、同じく小樽の黒土社・羊蹄画会・オアシス画会が、次々と展覧会を開催する。
○小樽では、若手洋画家の画会である羊蹄画会・登画会・オアシス画会・黒土社画会・小樽日本水彩画会支部・白夜画会が団結し、小樽洋画会が組織された。彼らは油絵百余点をたずさえて札幌の丸井呉服店で展覧会を開催する。

 小樽にこの頃すでに芸術青年らの団体が6つもあった、というのもすごいことなら、彼らが一丸となって〈小樽洋画会〉を立ち上げ、総勢12人かそれ以上、作品100点余りを引っさげて札幌で大展覧会、というのもインパクト大。札幌の美術青年たちにとっては、ほとんど〈小樽来襲〉といった感じだったでしょう!

 そして、この言葉は重要です。
 〝商工業や取引の盛んな、物質主義、拝金主義の小樽。こうしたすさんだ港町は概して文芸・美術などの芸術思想には縁遠い傾向にある。ところが小樽には全体的にこうした趣味傾向のあるのは札幌以上、いやむしろ、本道唯一というぐらい盛んなものだ。一種の奇蹟的現象と言いたい。〟

 (こんな、歴史もない新開地の港町に……しかも街の住民は、もっぱら商取引にしか興味が無いだろうに、なぜ?)と、その頃でも思われていたのですね。でも「なぜ?」に対しては軽々しく答えを決めつけるわけにはいきませんが、実際に、小樽の若者の間にミラクルが起こっていたことは確かです。そして、札幌での大美術展が「白夜会主催の下に合同」(『小樽新聞』大正6年10月12日)して行われたことも、また紛れもない事実です。

 なお正直に付言しますと、大同団結の小樽洋画会展覧会は、この時限りのものだったようです。ただ、各会派が共同で催事をやりとげた経験はやはり貴重であったらしく、小樽の美術家たちはその後も互いに交流が親密だったとのことですし、例えば大正12年の太地社発足の時には、以前は別の会にいた工藤三郎や三浦鮮治、兼平英示(英二)らが合流〈注4〉しています。そして、その際には札幌の画家にも呼びかけをしたとのことで、それもまた、かつて札幌の展覧会で、同世代の美術家たちと出会った経験があったからこそだったのでしょう。

 現在、小樽の美術史の中には、もともと美術結社ではなかった白夜会の名は記されていません。活動期間も短いものでした。しかし、彼らの存在が、大正5・6年の頃に小樽美術界に強烈にポジティブな作用を及ぼしたのは間違いありませんし、その影響自体は、白夜会が自然解消してメンバーが幾人か入れ替わり、別な名称とテーマを持って行動するようになった後も残ったわけです。言い換えれば、白夜会は〈小樽美術界のザシキワラシ〉だったのかも知れませんね。

「マドロス」 船樹忠三郎 『白夜』大正4年(1915)11月

〈注1〉小樽に市制が施行されたのは大正11年(1922)で、それ以前の行政区分は小樽区であった。

〈注2〉色内亭については未詳。演芸館かも知れないが、料亭、またはレストランであった可能性もあると思われる。

〈注3〉高田紅果の祖父の名は彌三右衞門、父の名は次郎三郎(じろさぶろう)といい、紅果(治作)は一人息子であった。ここから、彌三吉はおそらく紅果の父の兄の子ではなかったかと推測される。

〈注4〉なお、三浦鮮治と兼平英示は実の兄弟。神奈川の飯森家に生まれ、兄は小樽の三浦家、弟は小樽の兼平家の養子として育てられた。当初は所属画会も別々だった。