第6回 〈雑穀澱粉の成金〉とは?

 さて、「会員中には雑穀澱粉等の成金あり」という言葉について。
 第一次世界大戦の頃、北海道、とりわけ小樽が輸出で好景気に沸いたことは比較的知られていますが、まずはその事について、少し詳しく見てゆきましょう。

 明治32年(1899)に外国貿易港として指定を受けて以来、小樽は対外貿易に力を入れました。大正3年(1914)時点の記録では、輸出品目のトップは鉄道枕木(当時の金額で358,683円)とその他材木(3,496,088円)。次点の硫黄(378,665円)や林檎(207,981円)を大きく引き離していました。北海道開拓で伐り出される豊富な木々を、朝鮮・中国の鉄道敷設等のために送っていたのです。

 それが、大正3年6月28日のサラエボ事件で第一次世界大戦が勃発すると、様相は一変。欧州の農村は広範囲に深刻なダメージを受け、農作物の価格が軒並み高騰したのです。西欧諸国の人々が生き延びるためには、従来とは異なる国・地域からの物資輸入が必要不可欠となり、戦争当事国ではなかった日本は、この時、大きなチャンスを得ました。〈注1〉
 その結果、4年後の大正7年には輸出品目の上位に澱粉(でんぷん 5,007,281円)・豌豆(2,574,291円)が躍り出ました。以下、角材・手亡豆・玉葱・硫黄と続きます。〈注2〉
 なお、澱粉は、食べる以外に貼付用の糊(のり)としても需要が高かったそうです。

 小樽に、それまでとは桁違いな豪商が誕生したのはこの時です。

 この前段階から、小樽は、道内で生産される農作物の集積地として最重要な港となりつつありました。それは、明治30年代末から40年にかけ、小樽港と鉄道路線の接続が非常に良くなったから。南は函館、東どなりの札幌、さらに空知の炭鉱地帯、そのまた北の旭川や名寄。そして時間はかかりますが、道東の釧路とも、この時につながったのです。他にも函館・室蘭・釧路などの大きい港はありましたが、ここまでインフラ的に有利な場所はありませんでした。
 この地の利を活かして、内陸から輸送されて来る大量の雑穀・豆類を一気に買い付け、売り抜けて莫大な利益を得たのが、例えば、のちに〈小豆将軍〉と称えられた雑穀商の高橋直治(安政3・1856〜大正15年・1926)です。〈注3〉
 また、それらの物資を外国に運ぶ商船を動かして巨利を築いたのが、初代板谷宮吉(安政4・1857〜大正13年・1924)や藤山要吉(嘉永4・1851〜昭和13・1938)でした。彼らにゆかりのある建物は、現在は小樽市指定歴史的建造物となり、その伝説を今に伝えています。〈注4〉〈注5〉

明治40年時点の北海道鉄道路線
明治40年10月時点の北海道鉄道路線 『小樽新聞』より(日付推定 10月7日頃)

 さて、お話もどって〈白夜会〉です。
 高田紅果とその仲間たちが最初に文芸雑誌『詩と創作』を創刊したのは明治44年(1911)、『海鳥』を出したのは大正2年(1913)。これらはある意味、同好の士たちの小規模な動きだったわけですが、『白夜』創刊の大正4年(1915)から〈白夜会〉が展覧会活動を行う大正6年(1917)の間に、上記の小樽の大好況期間がまさしくピタリと重なります。
 そして、当時24〜5歳だった高田紅果も、実はこの時、澱粉や豆・雑穀等の相場で大当たりをとっていたらしいのです!

 紅果の父・高田次郎三郎(じろさぶろう)は石川県の内灘村(現・河北郡内灘町)出身で、新天地・北海道に夢を抱いて兄と共に松前に渡り、のち、小樽に移住して海運業で成功を収めた人でした。〝ソロバンに明るい人(経理能力が優れている人)〟と言われていたそうで、その才能は、息子の治作(紅果)にも受けつがれていました。
 だからこそ紅果は、明治38年(1905)に小樽商業学校〈注6〉卒業のあと、おそらくは父親の関係を通じ、保険代理業奥田商会に見込まれて、14歳で社員として働くことになったのです。奥田商会は、語学研修のために紅果を何度も東京にやってくれたそうですから、その期待の程がうかがえます。
 また実際、紅果は大変努力家で、英語の習得はもとよりですが、フランス語もほぼ自学自習でマスターしたとのこと。この能力が、やがて国際貿易関係の書類を作ったり、契約・権利の文書を読み解くのに役立ち、彼は若くして社内で頭角を現すことになりました。

 そして、ここにやってきたのが、澱粉・豆・雑穀相場の大投資チャンスです。

 最初はきっと、ものの試しという感じだったでしょうが、そこは経済に勘の優れた紅果のこと。まもなく、面白いように当たりがとれるようになったことでしょう。みるみるうちに、20代の若者としては有り余りすぎるぐらいの大金がその手に……。仲間から〈雑穀澱粉の成金〉と称されるようになったであろう、少なくとも、紅果はその一人だっただろう、と確言することができます。

 高田紅果のご子息は昭和生まれですので、父親のその時代を直接にはご存じありません。また紅果も、自分の年齢(とし)がいってから生まれた我が子に、昔の思い出を話すことはほとんどありませんでした。しかし、のちに新聞記者となったご子息は、往事の小樽の様子に関して、ある程度、人づてに聞き知っていたとのことです。
 何せ、外国市場とリンクしての大好況という点では、日本歴史始まって以来のこと。何よりすごかったのが、相場の配当の支払いだったそうです。額が大きいので、きちょうめんにお金を数えるなんてことはしなかったとか。行李(こうり 柳や藤などで編んだカゴ状の衣装箱または物入れ)にドサドサお札を入れ、足で踏んづけてギュウギュウ詰めにすると「ほいっ、持ってけ!」。ボンッと投げてよこされたそう。信じられないような光景! それが小樽式? でも、公的記録でも大正3年以降の貿易黒字の伸びはすごい勢いだったわけですから、あながち〝はなし盛り過ぎ〟ではないかも知れません。〈注7〉

 現代では、投資で高配当があっても、せいぜいパソコンかスマホの画面で桁の多い数字を見てニヤニヤする程度でしょう。それに比べると、ビックリするほど豪快だったのですね。

行李(Wikipediaより)

〈注1〉大正4年『小樽商工案内』に依る。

〈注2〉大正7年『小樽商工業統計書』(小樽商工会議所)に依る。

〈注3〉高橋直治は、長らく〝第一次世界大戦中に小豆相場で儲けた〟と伝えられていたが、そこには多少の誤解がある。直治が小豆で巨利を得ていたのは明治29年から35年頃までで、その時期に大商人としての基盤を確立し、また小樽初の衆議院議員となった。第一次世界大戦の際には、雑穀等をヨーロッパに輸出して利益を拡大していた。

〈注4〉小樽の〈旧寿原邸〉の創建者は高橋直治。板谷宮吉の〈旧板谷邸〉も有名で、この2つは東雲町にある。また、藤山要吉と〈小樽公会堂〉については第4回参照。

〈注5〉なお、今回の商業・経済に関するデータはすべて、以下の資料を参考とした。
「旧三井銀行研究会 第3回 北のウォール街の経済」平成29年(2017)3月12日 講師:江頭進(小樽商科大学理事・副学長)

〈注6〉小樽商業学校は、北海商業学校の前身。現在の北照高等学校にあたる。

〈注7〉高田紅果の少年期、および当時の小樽についてのエピソードは、ご子息の談話に依る。