第3回 演芸館が〈濃い〉小樽

 小樽は、非常に演芸館の多い所でした。例えば大正から昭和10年代にかけては、その名が『小樽市史 第10巻』に記録として残っている館だけで17館(何回か館名が変わっても同じ館として数えて)ありました。

 ただ、小樽を知らない方にとっては、そう言われただけではピンと来ないかも知れません。

 実は、小樽市は、合併された隣接の町村や、戦後の高度成長期に開発された住宅街を除けば、昔ながらの市街地は割にコンパクトです。
 現在で言えば、稲穂町の北端から、南は南小樽駅の周辺、住吉神社を越えて勝納川あたりまで。試みに地図サイトの機能を使って単純計算すると、直線距離で約2.5kmほど。徒歩46分、ジョギング18分で通り抜けられる距離、と出ます。もちろん、道には起伏も信号もありますので、実際はもっとかかりますが……。
 そして、そこを南北に縦断する商店街のラインに沿うようにして、大正時代から昭和初期には、演芸館が、全市17館のうち14館も建っていたわけですから、平均すると、約180メートルにつき1館…歩いて約3分につき1館の演芸館が現れる計算で、これは多いと言えるのではないでしょうか?

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第2回 洋楽ひびく小樽の街

 それでは、まず、高田紅果が取り組んだ芸術・文化の普及活動のことからお話ししてゆくことにしましょう。
 大正11年、高田紅果は、ドイツに留学中の友人・早川三代治に近況報告の手紙を書きました。早川三代治は小樽出身で、のちに経済学者にして文学者という異色の存在になるのですが、その話はまた他日にゆずるとして……その早川に送った紅果の手紙の内容は、下記のようなものでした。

また明日は早稲田の学生音楽団が錦座で三十人程のオーケストラで音楽会を開くさうです。(中略)アポロの方も少し時世に鑑みて大きな事業を慎んで、レコード演奏の地方公演をでもやることにしました、先月手初めに岩内の木田君に招かれて行って来ました。(中略)
 旭川だの倶知安だのへ折りをみて行って来やうと心掛けてゐます 会のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ。すこしづゝでもこうした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね。
(大正11年9月8日)

 この文中の「アポロ」とは何でしょうか。
 実は、前回に少し触れましたように、紅果は〈アポロソサエティ〉という西洋音楽普及団体で活躍していました。会の詳細な記録は残っていませんが、当時の新聞記事には、しばしばこの名が見受けられます。また、紅果と友人との間に交わされた書簡類の内容から見ても、彼が中心的に活躍していたのは確かなようです。
 例えば、ここに出て来る〝レコード演奏の公演〟ですが、(レコードの公演? どこかの飲食店の小部屋でも借りてチンマリとやる鑑賞会では?)などとお考えでしょうか? さにあらず! 新聞も欄を割いて予告宣伝するほどの、力の入った催しだったのです。

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第1回 市井人が織りなす文学史

 今、小樽の街は静かです。
 つい数ヶ月前まで、多くの観光客や地元の人が行き交っていた街路には、人影もまばら。いつも旧手宮線のレールの上を、平均台のようにバランスをとりながら、楽しげに歩いていた子供たちの姿も見えません。明るい日射しだけが線路に満ちています。
 休館中の事務室でキーボードを叩いていると、この街に〈賑わい〉があったこと自体、遠い夢だったような気がしてきます。

 しかし、今から百数十年前の小樽は、昨今とは比べ物にならないぐらいの活気に満ちていました。いえ、明治・大正時代だけではなく、その勢いは続きに続き、昭和40年代に産業エネルギー転換(石炭→石油)によって炭鉄港・小樽から多くの企業や銀行が去るまでは、ここは、地熱のように内側から沸き上がる熱気に溢れた街でした。

 え、「歌うことなき人々の声の荒さ」ですって? 確かに、小樽についての、そんな言葉もありましたね〈注1〉。しかし、それは表面的な印象というもの。小樽の人は、ちゃあんと〝歌う〟ことを知っていました。伝統的で雅びな情趣を美しく詠いあげる人もいれば、荒々しいなりに、力強く真情を吐露する人も居て…。それぞれが自分なりのやり方で、歌ったり、書いたり、表現したりしていました。それが、昔の小樽の人々だったのです。

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