第10回 「おい、ちょっと、あの芸盗めや」

 さて、久左ヱ門さんの店・越後屋陶器店の位置は、花園第二大通り、現在の国道5号線沿いです。また、平行したもう一本の通り、花園第一大通りには、小樽の中心部を占める長い商店街が形成されていました。
 当時は、第一大通りの方が比較的メインの商店街だったとのことですが、〈大売り出し〉などを開催しようという話になると、第一大通りの商店主さんたちから「お前たちの店も仲間に入れ」と、第二大通りの商店主に声がかかってきたとのこと。つまり、それだけ、第一と第二大通りの商店街は連携しており、気持ちの上でも親密だったわけです。

 そして、この第一大通りと第二大通りを結ぶ〈花園公園通り〉こそ、小樽市内でも殊に演芸館が林立するところでした(下図参照。「第3回「演芸館が〈濃い〉小樽」と共通)。
 住吉座あらため錦座(のち松竹座)や、大正6年まであった花園座、明治末から大正初年に開いた演芸館(という名称の館)、公園館、寄席の八千代館などなど…。水天宮からまっすぐに降りてくる道の道筋に立ち並んでいるさまは、まさしく、日常でありながらの〈祝祭のトポス(場)〉だったと言えます。

小樽の演芸館地図(大正〜昭和初期) ※昭和12年開業の小樽東宝を含む

 それら演芸館を日々稼働させるには、器物、幔幕(まんまく)、幟(のぼり)、小間物、酒、料理、もろもろを納める業者さんが必要ですし、髪を整える床山(髪結い)さんなども必要不可欠。そうしたわけで、第一・第二大通り商店街の名だたる商店主や若主人が演芸館出入りとなっていったのは、ごく自然のことでした。

 おそらく最初のうちは、館の方から〝いつもご苦労さん、よければ舞台を見ていっておくれ、お代はいらないから〟などと声をかけられ、観賞を楽しんでいたのだと思われます。
 それに加えて、みなさん語り物好きで、久左ヱ門は新内語りに興味があったそうですし、商店街には義太夫に凝る人も多く、見台(義太夫の台本を置く書見台。多くは黒の漆塗りで、蒔絵の施された立派なものもある)を持っている人も何人もいたとのことです。

娘義太夫
参考:娘義太夫の写真 膝前にあるのが見台 小樽市総合博物館所蔵

 ただ彼らは、店を誰かにまかせて、ゆったりと趣味に打ち込める〈優雅なご身分の若旦那〉であったわけではなく、常に、アクティブな商業都市小樽で、自分がフル回転していなければならない年齢と立場でした。そもそも最前線で働いているからこそ、演芸館にも顔パスで出入りしていたわけです。

 そんな次第で、彼らは、舞台を見せてもらうことでさらに芸を吸収していったのですが、その方法が驚きです!
 例えば演芸館で、今日の演し物の目玉は名人某(なにがし)の踊りと聞くと、仲間たちから「あの名人の踊りを盗めや」と久左ヱ門に声がかかります。
 そこで久左ヱ門は、幕に姿が隠れる位置へ。そして踊りが始まると、身ごなし、間合い、囃子方との呼吸の合わせかたなどを逐一見つめます。動きに合わせて踊ってみたりもしたでしょう。
 と、このようなやり方で、久左ヱ門やその仲間は、誰からも習うことなく、生の芸を目にしただけで、踊りを身につけていったのでした。そして、互いに芸を磨きあっていくうちに、館の側も彼らの芸達者に気づくようになり、時には前座を任される、という流れになっていったのだと思われます。

 かつて筆者が大学生の頃、ある講義で、芸能について次のような話を聴きました。
 ――はるか昔、芸人は定住せず、基本的に旅から旅へと渡り歩いていたことから、常民(じょうみん。農耕民などの定住者)にとって彼らは〈マレビト〉(稀に訪れる人、客人。まろうど)であると考えられていました。彼らは、神事や祭礼などの際には村に来て、場を盛り上げてくれる人々であり、そのため、その時には常民たちから、聖なる存在(神や精霊など)と重ね合わせて同一視されることもありました。その反面、素性がよく知れず、生産にも従事しないその日ぐらしでしたので、普段は〈河原乞食〉などと呼ばれて、さげすまれる対象でもあったわけです。
 その感覚は、中世以前から近世に至ってもずっと続き、〝芸人はどんなに華やかに見えようとも、根無し草で無頼(ぶらい)な稼業。だから、毎日まじめに働く百姓や町人など、堅気(かたぎ)の人々が深く関わっていい相手ではない〟と考えられて来ました。演劇や音楽は芸術だという観念が西洋から入ってくるのは明治維新以降のことですし、その後でさえ、芸術の名に値するものは西洋由来のものだけのように捉えられ、日本の伝統芸能が同様に芸術的で高尚なものだと広く認められるには、かなりの年月を必要としました。要するに、芸人と働き人との間には、越えがたい壁があったのです。——

 ところがここ小樽では、紛れもなく堅気の人々である商店主たちが、やすやすと、その壁を乗り越えていました。おそらく、ほとんど気にかけることもなく。
 いえ、壁があり一線があったのは、それまで日本社会に生きていた人々のある種の〈常識〉の中だけであって、越えてしまえば何のことはない、境目など、どこにも存在しなかったのでしょう。そして彼らには、新しい娯しみの世界が広がっていったのです。