第12回 人には見せず積む努力

 切られ与三郎や弁天小僧など、いずれも有名な見せ場のある役を担っていたのですから、その事実だけでも、越後久左ヱ門の演技力がどれほど皆に評価されていたかが察せられます。しかし久左ヱ門は、ただ自分の天性のみで演じていたわけではなく、役作りのために地道な努力を重ねていました。
 と言って、先にも少し触れましたように、小樽の商店主は皆、普段は家業で忙しくしています。それに、息子さんの話によりますと、久左ヱ門さんは、家では絶対に芝居の稽古をしている姿を見せず、踊りさえ見せなかったとのこと。とすると、いったいどこで、どんな風に修練を?という疑問が起こってきますね。

 その方法は、非常にユニークなものでした。

 例えば、〈浜松屋の場〉での弁天小僧の役。舞台に登場する時には、たおやかな武家娘の姿で出て来ます。あらすじをご説明しますと、この娘が、呉服店浜松屋で美しい布地を懐に入れるようなしぐさをしたことから、万引きだと見とがめられ、番頭にソロバンでぶたれて、額にケガをします。しかし、実はその品は他店のものでした。すると、娘のお供の若党(もちろん弁天小僧とグル)が〝嫁入り前のお嬢様に傷がついた〟と騒ぎ始め、さあどうする、とすったもんだ。結局、店から百両の示談金を受け取ることで、決着がつきそうになります。

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第11回 〈音羽家演劇同好会〉発足!

 しかし、越後久左ヱ門が舞台での唄や踊りに熱を込めたのは、単に仲間と一緒に芸事をするのが楽しかったからだけではありません。

 改めてご紹介しますと、久左ヱ門は、明治28年(1895)11歳の年に、石川県羽昨郡末森村から北海道に渡って来ました。年齢からみて、家族と一緒だったのでしょう。そして小樽の祝津学校〈注1〉に学んだ後、入舟一丁目のイチマス舛田商店(陶器・雑貨卸問屋)で丁稚奉公。日露戦争時には歩兵として入隊しましたが、明治39年(1906)に除隊した後はもう一度舛田商店に御礼奉公し、そして明治44年(1911)、27歳で花園町の畑14番地、現在の店舗の向かい側に独立出店したそうです。

当時、久左ヱ門の店の裏手、のちに演芸館が林立する所には、まだ山の痕跡が残っていました。明治38年までは、現在の花園町のど真ん中に小山があったわけで、この山が急速に切り崩されて街が造られていった様子については、以前「ブラタモリ」(2015年11月14日放送)で紹介されています。明治44年頃でも、小売りをしていたのは、その辺りでは久左ヱ門の店だけだったそうで、ですから文字通り、花園町で最も古い店舗であったと言えます。

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