第11回 〈音羽家演劇同好会〉発足!

 しかし、越後久左ヱ門が舞台での唄や踊りに熱を込めたのは、単に仲間と一緒に芸事をするのが楽しかったからだけではありません。

 改めてご紹介しますと、久左ヱ門は、明治28年(1895)11歳の年に、石川県羽昨郡末森村から北海道に渡って来ました。年齢からみて、家族と一緒だったのでしょう。そして小樽の祝津学校〈注1〉に学んだ後、入舟一丁目のイチマス舛田商店(陶器・雑貨卸問屋)で丁稚奉公。日露戦争時には歩兵として入隊しましたが、明治39年(1906)に除隊した後はもう一度舛田商店に御礼奉公し、そして明治44年(1911)、27歳で花園町の畑14番地、現在の店舗の向かい側に独立出店したそうです。

当時、久左ヱ門の店の裏手、のちに演芸館が林立する所には、まだ山の痕跡が残っていました。明治38年までは、現在の花園町のど真ん中に小山があったわけで、この山が急速に切り崩されて街が造られていった様子については、以前「ブラタモリ」(2015年11月14日放送)で紹介されています。明治44年頃でも、小売りをしていたのは、その辺りでは久左ヱ門の店だけだったそうで、ですから文字通り、花園町で最も古い店舗であったと言えます。

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第10回 「おい、ちょっと、あの芸盗めや」

 さて、久左ヱ門さんの店・越後屋陶器店の位置は、花園第二大通り、現在の国道5号線沿いです。また、平行したもう一本の通り、花園第一大通りには、小樽の中心部を占める長い商店街が形成されていました。
 当時は、第一大通りの方が比較的メインの商店街だったとのことですが、〈大売り出し〉などを開催しようという話になると、第一大通りの商店主さんたちから「お前たちの店も仲間に入れ」と、第二大通りの商店主に声がかかってきたとのこと。つまり、それだけ、第一と第二大通りの商店街は連携しており、気持ちの上でも親密だったわけです。

 そして、この第一大通りと第二大通りを結ぶ〈花園公園通り〉こそ、小樽市内でも殊に演芸館が林立するところでした(下図参照。「第3回「演芸館が〈濃い〉小樽」と共通)。
 住吉座あらため錦座(のち松竹座)や、大正6年まであった花園座、明治末から大正初年に開いた演芸館(という名称の館)、公園館、寄席の八千代館などなど…。水天宮からまっすぐに降りてくる道の道筋に立ち並んでいるさまは、まさしく、日常でありながらの〈祝祭のトポス(場)〉だったと言えます。

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第9回 小樽の演芸館と、踊る商店主

 では、項を改めまして、小樽の演芸館と市井の人々との関わりについてお話しさせていただきます。〝それは、文学とは何か関係があるのですか〟と? もちろん、これは、文学の享受の仕方にも関わるお話です。その事については追々と触れてゆくこととしまして……。
 今回は、小樽の花園町で陶器店を営んでいた越後久左ヱ門(えちご きゅうざえもん)氏(明治17・1884〜昭和43・1968)についての逸話を中心にお話を進めてゆきたいと思います。

 江戸時代の影響が色濃く残る〈芝居小屋〉の頃から、新劇・映画なども掛かるようになる〈演芸館〉の時代まで、演(だ)し物として庶民に人気だったのは、新内(しんない=新内節)、義太夫、浪花節などでした。三味線などで伴奏をつけ、唄うような節回しでストーリーや情景を語る、語り芸が大人気だったのです。
 その語りに人形で振りをつければ人形浄瑠璃、人間が演じれば歌舞伎。そのように考えると、歌舞伎も語り芸の一つの発展形と見てもいいのかもしれません。もちろん、講釈もその中の一つに入りますし、パロディ的に面白おかしく語れば噺(はなし)、いわゆる落語にもなるわけです。

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