第8回 〈おれたち〉の呼び声

 なお、これまでの話に付け加えるならば、高田紅果は、好景気の時や自分が裕福な時だけ文化活動をしたわけではありません。

 大正の末からは、小樽も苦難続きでした。大正13年の手宮駅爆発事件〈注1〉、昭和初期の世界恐慌の影響、そして小樽市主催北海道博覧会開催と同日の盧溝橋事件勃発。そこから始まる日中戦争……。時代が進むにつれて、小樽の賑わいは次第に影を潜めてゆきました。
 さらに〈大東亜戦争〉に突入してからは、小樽の商船も戦時中の人員・物資輸送にかりだされ、爆撃や雷撃を受けてニューギニア沖などに次々と沈没。小樽経済を牽引してきた海運業は、大きな痛手を被ったのです。
 市民生活においても、全国的に、思想問題に抵触しそうな社会活動はすべて統制の対象になりました。講演会はもとより、洋楽コンサートや西洋画の展覧会などはもってのほか。出版業界も整理縮小。書店の店主たちは戦争に召集されて行き、やがて、廃業を余儀なくされた店も出てきました。

 活気あふれた頃の小樽を知っている当時50歳前後の人々にとっては、実に淋しい限り……。高田紅果や、その旧友たちにとっては、味気ない日常の合間に古書店を廻ることだけがささやかな楽しみだったのですが、そこである時、フッと思いついたことが――

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第7回 新しい〈商人〉の理念

 〈白夜会〉がリードした、大正5〜6年頃の美術展。
 また、メンバーが替わり、〈緑人社〉(りょくじんしゃ)となってからの、大正10年代の様々な展覧会。
 さらにこの間に『おれたち』という雑誌の刊行あり、そのすぐ後には、小樽の文学史上重要な文芸雑誌『群像』の編集活動あり。
 加えて、〈啓明会〉による文化人を招いての講演会や、〈アポロソサエティ〉のレコードコンサート、外国人ミュージシャンの生演奏、etc…が小樽で繰り広げられるわけですが、これらの実現に高田紅果が深く関わっていたことと、その理由とは、前回までの稿でお分かりいただけたかと思います。
 
 もちろん、単に紅果一人の力で、これらがすべて可能になったとは思われません。紅果自身、例えば手紙の中で「会(※アポロソサエティ)のレコードが此頃は五十枚近くも出来ましたよ、すこしづつでも恁(こ)うした財産を働いて生んでゆくことは楽しみなものですね」(早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)と書いています。これなどは決して「全部自分が買った」というニュアンスではありませんから、おそらく他の会員たちが寄附してくれたりしたものを集めて、当時高価だったレコードを増やしていったのだと思われます。
 要するに、紅果が力を尽くしたのは、〝文化的なことには意義があるよ〟と人の気持ちに働きかけることであり、では、それを何かの形にして世に表現しようとなった時に、皆のためにその場を用意すること、そしてそれが立派なものになるように、最適な演出を考えることであったと思われます。

 それにしても、高田紅果という人の立ち位置には、独特なところがあります。

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第6回 〈雑穀澱粉の成金〉とは?

 さて、「会員中には雑穀澱粉等の成金あり」という言葉について。
 第一次世界大戦の頃、北海道、とりわけ小樽が輸出で好景気に沸いたことは比較的知られていますが、まずはその事について、少し詳しく見てゆきましょう。

 明治32年(1899)に外国貿易港として指定を受けて以来、小樽は対外貿易に力を入れました。大正3年(1914)時点の記録では、輸出品目のトップは鉄道枕木(当時の金額で358,683円)とその他材木(3,496,088円)。次点の硫黄(378,665円)や林檎(207,981円)を大きく引き離していました。北海道開拓で伐り出される豊富な木々を、朝鮮・中国の鉄道敷設等のために送っていたのです。

 それが、大正3年6月28日のサラエボ事件で第一次世界大戦が勃発すると、様相は一変。欧州の農村は広範囲に深刻なダメージを受け、農作物の価格が軒並み高騰したのです。西欧諸国の人々が生き延びるためには、従来とは異なる国・地域からの物資輸入が必要不可欠となり、戦争当事国ではなかった日本は、この時、大きなチャンスを得ました。〈注1〉
 その結果、4年後の大正7年には輸出品目の上位に澱粉(でんぷん 5,007,281円)・豌豆(2,574,291円)が躍り出ました。以下、角材・手亡豆・玉葱・硫黄と続きます。〈注2〉
 なお、澱粉は、食べる以外に貼付用の糊(のり)としても需要が高かったそうです。

 小樽に、それまでとは桁違いな豪商が誕生したのはこの時です。

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第5回 芸術が盛んなミラクルの街!

 前回までは、講演会や展覧会などの催しで、小樽の色んな施設をフルに使っていた高田紅果とその友人たちについてご紹介しましたが、実は、その活動は、大正10年代にとどまるものではありません。少なくとも大正5年(1916)頃から、彼らはもう、そういう活動を始めていたらしいのです。

 例えば、その年の6月28日には、『小樽新聞』に「オアシス羊蹄画会連合洋画会 七月一、二両日色内亭にて」という記事が載りました。内容は〝当区〈注1〉の洋画研究会である羊蹄画会の上田如神は、三浦鮮治・蛯子幸一らのオアシス会員と計画して、来る七月一日・二日の両日、色内亭〈注2〉においてオアシス羊蹄画会連合展覧会を開催する。日本水彩画会の平沢三味二(貞通)、船樹忠三郎らも応援で出品する予定〟というものです。
 船樹忠三郎と言えば、前回、名前が出ていましたね。この頃彼はまだ25歳前後。2年前には東京に出ていて、木下藤次郎が開いた日本水彩画研究所で学び、第一回二科展で入賞した気鋭の新人。そして小樽では、若き日の平沢貞通と一緒に、日本水彩画会の支部を立ち上げていました。
 また、その一方では、高田紅果の関わっていた雑誌『白夜』が〈捲土重来〉で再刊か!という記事が載っておりまして……。

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第4回 まだまだあった、大賑わいの施設

 さて、前回お話ししましたように、小樽では各演芸館がバラエティに富んだ演(だ)し物で観客を魅きつけていたわけですが、これが文化講演会や絵画展となると、他の施設も利用されていました。その好例が、公会堂や〈倶楽部〉という場所です。
 ここで、高田紅果の書簡に戻って見ましょう。

此月(大正11年9月)は二日ばかり前に函館へ来てゐた変態心理研究の中村古峡氏を聘して講演会を開いた、公会堂でやったんですが百五十名程の人を集めました まづ成功の方でせう 
(高田紅果 早川三代治宛書簡 大正11年9月8日)

花の盛りの頃に私達の緑人社一派と、銀行の人達や所謂邦画の紳士連中の団体吟筆会と合同で展覧会を開いたものです。
(高田紅果 早川三代治宛書簡 大正13年6月29日)
※『小樽新聞』大正13年5月17日に「小樽公会堂で絵画展覧会」の記事あり

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